第18回トロント国際映画祭は9月9日〜18日、トロントの5つの映画館を中心に開かれた。12スクリーンをフルに使って、全部で299本の作品が上映される。北米英語圏最大の映画祭というゆえんだ。華々しいコンペティションも、映画史的な研究もないが、その分現代映画の最先端を集めた見本市としては充実してると言ってよかろう。
オープニングを飾ったのはワールド・プレミアとなるデヴィッド・クローネンバーグの新作「M.バタフライ」。なんとキャンベル・カナダ首相もクローネンバーグの隣で見たという(記者会見で「首相は楽しんでましたか?」ときかれたクローネンバーグは、「今、裏で聞いてるから、めったなことは言えないな」と笑っていた)。フランス人外交官が京劇の女形役者と20年以上にわたる関係を結び、愛ゆえにスパイ行為まで働くことになる。相手が男であることに気づかないままに。この二人をジェレミー・アイアンズとジョン・ローンが演じる。外交官ガリマールは、実際には、気づかないというより事実を認めたくないのだ。自分がゲイであることを認めたくないため、冷静になればすぐ間違っているとわかるはずのファンタジーに固執する男。これは前作「裸のランチ」でも使ったモチーフで、クローネンバーグにとってはもはやお手のものだ。自家薬篭中のテーマを、他人の脚本で(原作の芝居も書いたD・H・ホワン)、なじみの役者を使って撮るとなれば、軽く流した印象はいなめない。しかし、その分クローネンバーグにしては断然とっつきのいい作品だ。
今年の特集は〈ナンニ・モレッティとイタリアン・ルネッサンス〉、加えてロシアのセルゲイ・ボドロフ(「自由はパラダイス」が日本でも公開されている)にスポットライトを当てた監督特集も組まれた。特別招待や〈コンテンポラリー・ワールド・シネマ〉には、秋から冬への公開をひかえた米国メジャー会社のアート・フィルムが集まっている。トロントの洗練された客層は、アートハウス向け映画の反応を見るにはぴったりなのだ。ロバート・デ・ニーロの初監督作品「ブロンクス物語A Bronx Tale」や、ガス・ヴァン・サントの新作「カウガール・ブルース」、キシェロフスキやドゥシャン・マカヴェイエフ、ゴダールの新作も並ぶラインナップはなかなか豪華だ。
しかし、結論から言ってしまうと、そういう映画はまったく見なかった。もっぱら〈エッジ〉プログラムの上映作品を追いかけていたためだ。世界中から映像表現のエッジを探求する作品群を集めたこのプログラムこそ、トロント映画祭のもっともトロント的な(すなわち現代的な)部分だろう。実際、期待にたがわず、映画祭でもっとも刺激的な作品のいくつかは、このプログラムに含まれていたものだった。
まず挙げておきたいのはオランダ映画「禁じられた航海The Forbidden Quest」(監督ピーター・デルポー)。1905年に、密かに南極探検に出かけた帆船ホランディア号の運命を描いたドキュメンタリーである。歴史の陰に埋もれていたホランディア号の謎が、奇跡的に発見された記録フィルムと、唯一の生存者の証言によって明かされてゆく。勇敢な船長に率いられて南極大陸に到着した船員たちは、そこで北極グマやエスキモーを発見する! 彼らは地球の裏側の穴を通って、北極から南極まで来ていたのだ。探検隊はかろうじて南極点の穴に到達するが、もう戻ることはできない……もちろんこれが真実なわけがない。種明かしをしてしまえば、“記録フィルム”は実際の極地探検で撮られたフィルムを編集しなおしたものなのである。記録映像の生々しさと、再編集の見事さは特筆に値する。ドキュメント素材を利用し、ドキュメンタリーを偽装したフィクション。今回印象に残った映画は、興味深いことに、多かれ少なかれドキュメンタリーとフィクションの“エッジ”を追求している作品だった。
最大の驚きはオーストラリアの自主製作映画「思い出と夢Memories and Dreams」(監督リン=マリー・ミルバーン)。一言で言ってしまえば、ナチ占領下のチェコスロヴァキアで女優として働き、戦後ソ連の支配を逃れてオーストラリアに移住したユダヤ人女性の半生記なのだが、フィルムの美しさは筆舌につくしがたい。まずすべてをモノクロ・フィルムに撮影してから、そのフィルムに一コマ一コマ手で色をつけ、それをまた再撮影したという。考えただけでも気が狂いそうな作業(5年かかったとか)だが、結果はその執念以上の驚きである。柔らかな人工彩色、古いポストカードでしか見られない画面が動くのだ。これまで誰も見たことがない映像。淡々と思い出(もちろん、実話)を語る老嬢のナレーションとともに、過去の断片が現れては消えてゆく。ときに繰り返し、ときに時間を飛ばし。それははまちがいなく“記憶と夢”の手触りなのだ。撮影所での事故(火災で女優が焼け死ぬ)すら、記憶の中では美しいセピア色に染められる。これ以上ないほど繊細な美しさを持つフィルムである。
さらに「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」マジャール・スタイルといった趣の「思春期Senkifoldje」(監督アンドラス・ジェレス)は、ナチス占領下に生きるユダヤ人少女の日常を描く。少女が読んでいるディケンズの「デヴィッド・カッパーフィールド」の世界や、当時の記録映像が、徐々に悪化していく少女の生活の中にまぎれこみ、混然一体となって語られていく。さらにデレク・ジャーマンの教育映画?「ヴィトゲンシュタイン」も、地味な素材にもかかわらず、終影後拍手が起こる人気ぶりだった。哲学者の孤独と悲しみをユーモラスに、かつ感傷を廃して描いて、ジャーマンの最高到達点と言ってもよかろう。もちろんヴィトゲンシュタインの哲学も勉強できるので二度お得だ。
トロントはマーシャル・マクルーハンを生んだ、メディア学の最先端を走る都市でもある。そこで開催された映画祭であれば、現代メディアのエッジを感じさせる作品が突出して見えるのは当然かもしれない。ドキュメントとフィクションのはざま、その二つが混然一体となった世界。それは、“映画的”ではないかもしれないが、もっとも現代的なものではある。最上のときには(「禁じられた航海」のように)、神話の香りさえただよわせる。〈エッジ〉プログラム以外でも、記憶に残ったのは、多かれ少なかれ、そうした部分に踏みこんだ作品だった。
〈CWC〉で上映された「ハーフ・ジャパニーズHalf Japanese:The Band that would be King」(監督ジェフ・フュアジーグ)はドキュメンタリーである。ただし、あまりにバカバカしくて、初めて見る人にはとても現実だとは思えまい。主人公になるのは、楽器の使い方も知らない二人の兄弟。ある日バンドを組もうと決心した二人が、20年かけて“世界最高のレコード”を作りあげ、エルヴィスを打ち負かすまでを描いたストーリーである。これはすべて事実なのだ。実際、1/2ジャパニーズは、アンダーグラウンドではそれなりに知られた存在なのだが、メジャーなメディアには現在にいたるまでほとんど無視されたままである。監督は、世界最高のバンドである1/2ジャパニーズが正当な評価を受けられないことに怒り、その真価を天下に知らしめるべく、自ら映画を撮ってしまったのだ。したがって出てくるのはすべて本当の話、実在の人間が語る証言なのだが、ほとんど超現実的におかしい。「1/2ジャパニーズは楽器の使い方をまるで知らなかった。だから、彼らが自分のやりたいことをつかんで、どうすれば音が出せるかをわかったのは、すごい瞬間だったんだ。音楽の歴史だと、14世紀くらいに起こったことだ」なんて言われるバンドを愛さずにいられるだろうか。
こう書いていると、映像表現の未来を考えながら、こむつかしい映画ばかり追いかけていたようだが、そんなわけはない。毎日深夜12時開映の〈ミッドナイト・マッドネス〉だけは、他の上映と重ならないこともあって、ほぼ日参した。日本で言えばファンタスティック映画祭だろうか、ミカ・カウリスマキの「最後の国境線The Last Border」(「マッドマックス2」を完全にパクった代物)、リチャード・リンクレターの「Dazed & Confused」(“ラリラリでクラクラ”ってとこか。「アメリカン・グラフィティ'76」)なども楽しんだが、偶然かどうか、ここでも最大の発見はやはりフェイク・ドキュメンタリーだった。最後にその映画について。
「メイキング・オブ・『…そして神語りき』The Making of "...And God Spoke"」は、聖書を題材にしたエピック・フィクションのメイキング・フィルムというかたちを取っている。低予算映画ばかり作っている二流プロデューサー&監督のコンビが聖書を題材に「十戎」のような大作を作ろうとするのだが、いかんせん予算がちょっとばかり不足している。しかたないのでエキストラから雇ったイヴは胸に蛇の入れ墨をしており、タイアップの都合でモーゼはコーラを飲む。しかし何が起きようと、映画は完成しなければならないのだ! これではまるでロジャー・コーマン自伝である。あまりおかしかったので、終映後に監督アーサー・ボーマンをつかまえて尋ねたら、やはりというか、ロジャー・コーマンの下でプロダクション・アシスタントをやっていたんだとか。最後まで、どこまでがフィクションかわからないままのトロント映画祭だった。