イエジー・スコリモフスキー インタビュー

〈COMPOSITE 99/3〉掲載


 イエジー・スコリモフスキーほど過小評価されている映画監督も珍しいだろう。それはロマン・ポランスキーと比較すればあまりに明らかだ。スコリモフスキーとポランスキーはほぼ同年輩であり、同じような幼年期を過ごして、同じころキャリアをはじめた。初期には共作していたこともあり、そのころの評価はほぼ同等だった。ポランスキーの方がちょっぴり余計にニューロチックで、スコリモフスキーの方がちょっぴり腰が軽そう。違いはそれくらいだった。監督として、作家としての才能にさしたる差があったとも思えない。だが、今やポランスキーの方は戦後ポーランド映画最大の才能であり、70年代にハリウッドで最良の映画を作った異邦人として知られている。だが、スコリモフスキーはと言えば、よほどの映画マニアでもなければ名前も知らない存在だ。

 だがしかし、その名前を覚えている人にとっては、スコリモフスキーはポランスキーに匹敵する、あるいはそれ以上に重要な映画監督である。中でも1970年に英国で作った『早春』は(いまやまったく見られなくなっていることもあいまって)、70年代最大のカルト映画となっている。スコリモフスキー、というのは魔法の名前なのだ。

 故国を離れて幾千里、現在はスコリモフスキーはロサンジェルス在住である。1967年に彼がベルギーで作った映画『出発』が初公開されることになり、来日した彼にインタビューする機会をもらったので、彼の流浪の映画人生をたどってみることにした。

−−スコリモフスキー監督は1938年に生まれて、ナチス・ドイツの収容所でお父さんを亡くされてますね。監督ご自身は?

いや、父はドイツの占領軍に対するレジスタンスに参加していて、ドイツ軍に逮捕されたんだ。母もレジスタンス活動のせいで収容所に送られたので、わたしは孤児院に収容された。

−−戦争体験はどんな影響をもたらしましたか? と聞くのはポランスキーのことがあるからで、彼の場合は収容所体験がその後の人生を決定づけたようなところがあるからなんですが。

戦争のときはもう七つになっていたから、鮮明な記憶がある。あの恐怖からは生涯逃れられないね。両親はレジスタンスのビラを作っていたので、ゲシュタポの捜索を受けた。わたしは親から「ニコニコ笑ってろ」と言われ、脅えきっていたけれど笑顔を作りつづけた。しまいにはゲシュタポの兵隊からクッキーをもらったよ。あれが生涯最初の演技体験だな! あと、爆撃に遭って数時間瓦礫の中に埋められていたこともある。助け出されたんだが、私は喋れなくなっていた。数ヶ月間一言も口をきかなかった。今でもどもりが出ることがあるよ。

−−成長してからウッジ映画大学に進み、ポランスキーやコメダらと出会うことになります。

ポランスキーと出会ったのはジャズ・グループでだ。一種の秘密クラブのようなもので……共産党が唯一黙認していた西側の音楽がジャズだったんだよ、なんせ黒人のものだからね(笑)。だから、西側に憧れを持つ若者が集まって、政治集団のような感じになっていた。

 そのころは詩を書いていて、あまり映画に興味はなかった。ところがボクシングをやっていたもので、ちょうどボクシング映画を作っていたアンジェイ・ワイダ監督に紹介されたんだ。で、映画に俳優として出演したんだが、そこでワイダに映画学校に行くよう勧められたんだ。試験は翌日だった。だから、ワイダの推薦をもらうとその足で列車に飛び乗って、試験を受けに行ったんだよ。二千人の受験生の中から三人しか合格しない試験に通り、二週間後には学生になっていた。

−−『バリエラ』(66年)は監督の学生時代をそのまま映画化したように感じられます。はじけそうに若々しく、元気いっぱいでやんちゃなところが。

当時は自由化があって、鉄のカーテンが−−破れたとは言わないまでも−−少し破れて、西側の文化がかいま見えるような感じがあった。実際、私たちは作品を作っていくことを通じて自由を獲得していったのだ。そんな雰囲気が映画にも現れているのではないかと思う。

 だが、それはあくまでも中途の過程でしかなかったんだ。その次の映画(『手を挙げろ』(67年))には、スターリンの巨大なポスターがミスで目が四つあるように印刷されてしまう、というシーンを入れた。それはやりすぎだったんだ。自由もいいが、ほどがある、と言われたわけだよ。映画は上映差し止めになり、私は国外に逃げざるを得なかった。1989年に〈連帯〉が勝利するまでポーランドに真の自由は訪れなかったんだ。

−−ゴムルカ首相が主導したポーランドの自由化は、戦後ポーランドの青春時代だったと言えます。それは同時に、あなたの青春時代でもありました。『手を挙げろ』の検閲で国を離れなければならなかったことは、青春時代の終わりを告げる出来事だったように思えます。

作品が公開できず、すべてが無駄になってしまった。それは間違いなく若かった情熱と熱狂にとって手ひどい打撃だった。もうポーランドでは映画が作れない−−そうわかったとき、自分の中の何かが断ち切られたようだったよ。なんの準備もなく、言葉も喋れないのに西側に行かなければならなかった。選んだわけでもなく、いちからやり直さなければならなかったんだ。とても辛いことだった。

−−『出発』(67年)、そして傑作『早春』(70年)がいずれも青春の終わりをモチーフにしているのが、象徴的に感じられます。『出発』はベルギーで撮った映画ですね。なんでもほとんど思いつきのように作られた映画だという話なんですが。

その通り。カンヌで西側のプロデューサーと話し合っていたとき、その通訳をしてくれたのがベルギーのカー雑誌の編集長の奥さんだった。ところがプロデューサーが煮え切らない返事ばかりしているんで、彼女が「じゃああたしがプロデュースしてあげる」って言い出したんだ。条件はカーレースの映画であること。脚本をわずか十日間で書き上げ、それと平行してフランス語に訳していった。すぐに撮影をはじめて、わずか十七、八日で撮り終えた。編集は三日だよ(笑)。

−−映画全体の息せき切ったような感じは、そんなところから生まれているようにも思います。ジャン=ピエール・レオーが演じているせいでもあるんでしょうが、でも、それは同時に御自身の性格も反映しているんじゃないでしょうか。映画大学の入学試験を受けるときのエピソードが典型だと思いますが。

その通りだと思う。私は昔からいい学生ではなかった。表面だけをなぞって、すぐわかった気になってしまうんだ(笑)。

ーーでも、それはまさにヌーヴェル・バーグ的で、青春映画のリズムなんだと思います。実際、その軽さがあればこそ、気軽に海外で映画作りが出来たんじゃないでしょうか。ポランスキーのような亡命映画作家の作品にはつねに喪失感がつきまとっているものですが、スコリモフスキー監督にはあまりそんな悲壮感はないですね。

映画をどこで作るかは問題じゃない。大事なのは映画の心理的テーマなんだ。それに新しい土地で、新しい風景に出会うのは新しい挑戦でもある。たとえばイギリスにクリケットというゲームがある。まったく退屈な(笑)、何をやっているかもよくわからないゲームだ。だが、見ていると中に「ここだ!」という瞬間がある。そういった瞬間だけをつなぎあわせていくんだ。それは、クリケットを見慣れた英国人には絶対に見つけられないイメージのつながりになっている。そのイメージが一般的にどんな意味を持っているのか、なんてことは知らないでも映画は作れるんだよ。ある意味では、異邦人でいるおかげで、わたしはいいエピソードだけをつまみ食いできているんだよ。


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Kiichiro Yanashita / 柳下毅一郎 / yanasita@gol.com