『ありふれた事件』

『ありふれた事件』劇場用パンフより転載。
 ベンの商売は殺し屋である。
 とは言っても金をもらって殺人を請け負う殺人者ではない。金のために殺しをするのは同じでも、むしろ粗暴犯罪者と呼ばれるようなタイプである。金をもってる奴がいたら、ぶん殴って金を奪う。そういう原始人型の、欲望と行動が太い直線でむすばれた殺人者である。ベンは殺人そのものが目的なのではなく、殺してしまった方が後腐れもないし簡単だから殺してるだけだ(少なくとも本人はそう言う)。原因も目的も人並みなのだが、ただモラルが壊れてるんで平気で殺人ができる。
 こういう人殺しはわりと常識的で(!)、理解しやすいんだが、実在殺人者の歴史を見ると、実はあまりいないタイプである。強いてあげれば映画『ヘンリー』の元になったヘンリー・ルーカスくらいか。自供によれば、ヘンリーは約15年間に180人近い人を殺した。絞殺や拳銃、刺殺と手口もさまざま、理由もセックスだったり、金品のためだったり、時には暇つぶしのためとかでたらめ、犯行現場も全米に散らばっている……これでは、ヘンリーが自白するまで同一犯人の仕業だとわからなかった警察もそうは責められまい。裏を返せば、ふつうの連続殺人者[シリアル・キラー]の場合は、手口や犠牲者がひとつに決まっているのだ。
 たいていの連続殺人者はセックス・キラーである。性的快楽のために人を殺すタイプが一般的なのだ。実際に行為にいたらない場合でも、原動力となるのはあくまでも性衝動だ。そういう殺人者は、たいていの場合、自分をコントロールできない。どうしようもない衝動にとりつかれ、理性の止める声に逆らっても犯行を繰り返す。続けていればいずれは捕まることがわかっているのに、それでも「もうひとりだけ、あともうひとりだけ」と殺しつづける。テッド・バンディしかり、ジェフリー・ダーマーしかり。だからこそ連続殺人者はおもしろい。歪んだ行動の裏に、歪んだ動機を隠しているから。
 人殺しは人殺しでも、ベンはそういうタイプではない。いつでも足を洗って、まともな稼業に/ただの強盗に戻れそう。心理的にはごく普通の人間なのだ。連続殺人者にぼくがひかれる興味は、まず第一にその心理である。なぜ殺すのか? だけどベンにそんなことを聞いてもはじまらない。金のため、と答えるに決まっている。実際、ベンは金にならないからと郊外の高級住宅地を襲うのをしぶる。したがって、彼に発すべき質問は、なぜ?ではなくて、どうやって?になるだろう。どうやったら人は死ぬのか? 絞殺にはどのぐらい力が必要で、時間がかかる? 死体を始末するにはどうしたらいい?(お忘れなく、子供は体重の4倍だ)
 人殺しを追いかけるドキュメンタリー作家。ベルギーの三バカ大将がこのアイデアを思いついたとき、ベンをどういう犯罪者にするか、いろいろ考えたんじゃないかと思う。もちろんセックス殺人者にする手もあった。テッド・バンディみたいな自信満々の連続殺人鬼を使ったって、おもしろい映画は作れたはずだ。だが、バンディの興味はすべて内に向いている。バンディの殺人は内面的な、精神的なものだ。だが、ベンはあくまでも外を向いている。彼にとって、殺人は純粋な技術である。ベンはマニュアル化して殺人を語ることができる。殺人はたんに仕事の一部、手間のかかる部分に過ぎないからだ(ついでながら、どんな仕事でも、いちばん手間な部分が、やってていちばんおもしろい部分でもある)。だからベンは淡々とカメラに殺人のディテールを語るのであり、そこから『ありふれた事件』の乾いたブラック・ユーモアが生まれるのだ。
 このブラック・ユーモアというのが実に最低の奴である。誘拐されて川に放りこまれた四歳の子供にちなんでカクテルを作ってしまうし、老婆をショック死させて「弾の節約だぜ」とうそぶく。最低だ。最低なんだが、しかしこれはおもしろい。つい笑ってしまうのだ。
 そう、殺人の話はおかしい。微にいり細にうがってディテールを話せば、語れば語るほどおかしくなってくるのだ。不謹慎なと言わば言え。人間をただの”モノ”として扱うことには、どこか爽快なものがある。ベンは徹頭徹尾形而下の人間だから、この映画では人間も、殺人も、すべてはたんなる”モノ”だ。だから『ありふれた事件』は死ぬほどおかしい。殺人はおかしい。やるのもおかしい(あ、いや、この点をあまり追究すると、末は塀の中か松沢さんところか、ということになるので、深くは考えない方がよろしい)。見るのもおかしい。そのことを、これほどリアルに教えてくれる映画はそうはない。

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Kiichiro Yanashita / 柳下毅一郎 / PDE01513@niftyserve.or.jp