アレックス・コックス・インタビュー

(初出・『キネマ旬報』1993年6月下旬号)


 アレックス・コックスにはじめて会った人は、たいてい驚かされるようだ。変人だからではない。『レポマン』や『シド・アンド・ナンシー』を撮った監督、筋金入りのパンク野郎とかいうふれこみから、いったいどんな乱暴者が出てくるのかと妙な期待をして行くと、見事に裏をかかれてしまう。コックスは気さくで、思慮深く、親切な人である。頭の回転が早く、サービス精神も豊かで、どんな質問にも丁寧に答えてくれる誠実さの持ち主だ。彼は気のおけない友人だ。もちろん、その下に強烈な皮肉と反抗心を隠していることは、彼の作品に親しんでいれば知っているはずだが。
 4年ぶりの新作『PNDC−エル・パトレイロ』を携えて、これがコックスにとって二度目の来日になる。配給元・ケイブルホーグのおかげで、二回に渡りかなり長い話を聞くことができた。

−−『エル・パトレイロ』はあなたにとって4年ぶりの新作であり、はじめてのメキシコ映画です。メキシコで映画を作るきっかけはなんだったんですか?
コックス 最初にメキシコのクルーと仕事をしたのは、1986年『ウォーカー』でのことだ。『ウォーカー』のロケハンでメキシコに行ったとき、北メキシコを案内してくれた運転手が、ハイウェイ・パトロールあがりだった。彼の話がとてもおもしろかったので、ぼくはロレンゾ(・オブライエン 脚本家)に、この話を脚本にするべきだと言ったんだ。そして4年後、メキシコに戻って、その彼にインタビューした。だから、映画に出てくることは、ほとんどが、実際にその友人に起こったことでもある。

−−メキシコではハイウェイ・パトロール映画が一つのジャンルになっていると聞いたんですが?
コックス そう、その通り。実を言えば、『エル・パトレイロ』は警察から協力を受けなかった、はじめてのハイウェイ・パトロール映画なんだ。脚本を見せたところ、ロレンゾはいきなり本部に呼びつけられて、心理テストにかけられたんだ。ホモセクシュアルか? 父親とのあいだに問題はなかったか? 精神科医のシーンは、そこから生まれたんだよ。通常は警察がヘリコプターや車、制服なんかを貸してくれるんだが、この映画には一切補助はなし。ただ邪魔はしないから、好きにやって構わない。そこでぼくらはバッジも制服もすべてセシリア(・モンティエル プロダクション・デザイン)がデザインした、PNDCという架空の警察を作ったんだ。実際の警察のロゴは使えなかったんでね。

−−どう言った点が問題にされたんでしょうか。
コックス そう、伝統的なハイウェイ・パトロール映画は、タフな正義の警官と、狂った悪い山賊が出てきて、必ず山賊は警官の家族を誘拐するか、町の住人を皆殺しにするかして、警官はたった一人で悪漢と対決しなきゃいけなくなる。面白かったのは、ロレンゾの脚本を読んだハイウェイ・パトロールの反応で、「この主人公が妻に怒鳴るところはおかしい。ハイウェイ・パトロールは妻に怒鳴ったりしない!」(笑)。だけどぼくには、逆にハイウェイ・パトロール映画の主人公の中の方がよっぽど狂ってると思える。ぼくの見たある映画では、悪漢に殺された家族の死体を、主人公が居間に座らせたりするんだぜ!

−−まるで『サイコ』ですね。
コックス まったくだ(笑)。ただし、ただ一つ違うのは、ハイウェイ・パトロール映画では、警官が賄賂を取るところは見せないんだ。そこが問題なんだ。当局は、そういう映画に対しては、公式に賛成することはできないんだよ。

−−メキシコという神話的な土地で撮影することに、特別の感慨はありましたか? ブニュエルの土地で?
コックス メキシコの雰囲気、あの土地にはコスモポリタンなものがある。メキシコシティーは、アメリカよりもずっと洗練されていて、ヨーロッパ的だ。メキシコは常に、ヨーロッパの芸術家が逃れられる場所だった。そしてインスピレーションを得られる場所。それにずっと自由でもある。アメリカでは、決まったタイプの映画を作れと強制されつづけだった。メキシコの映画はもっとずっと自由だ。それは、英語圏の映画からはもう失われてしまったように思える。60年代の終わり、70年代の頭には、すばらしい映画が何本も作られていた。『二〇〇一年宇宙の旅』、『真夜中のカーボーイ』、『オー! ラッキーマン』……子供のころはあんな映画を見て、「よし! ぼくも大きくなったら映画作家になるぞ! すごいことができるぞ!」とか思ったもんだが。

−−だけど、それは今に始まったことじゃないでしょう?
コックス もちろん。だけど作られる映画の数は減り、予算は大きくなった。その分、映画作家にかかるプレッシャーは大きくなる。インディペンデント会社はスタジオ映画の安いイミテーションを作ろうとするだけだし。それがニューラインやサム・ゴールドウィンの戦略なんだよ。
 それにまた、アメリカ人監督には、さらに映画が撮りにくくなってる。アメリカでは俳優に監督をさせるのと、外国(オーストラリア、オランダ……)から監督を連れてくるのが流行してる。だからまったくもって難しいんだよ、アメリカ人にとっては。ぼくはイギリス人だから得してるけどね(笑)。

−−実は先日アビー・ウール(『シド・アンド・ナンシー』の脚本家)の『蜃気楼ハイウェイ』を見たばかりです。彼女なんかもがんばってるじゃないですか。
コックス ぼくは『Slacker』というのを見たよ。たいへんビザールな、途方もない映画だった。ただし、アビーやその『Slacker』の監督たちの場合……一本目はごく低予算だ、だから放っておかれる。それなりの自由もある。問題はその後の動き方だ。スタジオに行けば、俳優たち(ジョディ・フォスター、ジョン・タートゥーロ、ティム・ロビンズ……)と競合しなきゃならない。スタジオは俳優にやらせたがる。賄賂みたいなもんだ。ジョディ・フォスターに監督させてやれば、その後何本か出演作を作れるだろう? 一方でインディペンデントに進めば、一本終わるごとに出発点に戻ってしまう。アビーが『蜃気楼ハイウェイ』を撮ったのは二年も前だが、いまだに次のプロジェクトが出来ないでいる。

−−「ありのままの警官の姿を描きたかった」ということですが、それでいて『エル・パトレイロ』はどこかファンタジックです。架空の警察が出ているのも大きな原因でしょうが、全体に西部劇風の味つけがされているせいでもあります。最後の銃撃戦とか。
コックス あの二人、警官と麻薬ディーラーは、どちらも自分たちが西部劇にいるんだと思いこんでいるんだ。二人ともとても若い、一方は20歳でもう一方は15歳ばかり。現実との接触などないようなものだ。自分がギャングだと、正義の警官だと信じこんでいるんだが、実際には、どっちもただのガキだ! 二人はいわばファンタジーの中に生きている。だからむしろ、彼らの心の中が西部劇なんだと言える。

−−大変に印象的な風景ですが、あの地形は自然にあったものなんですか?
コックス ああ。北メキシコのザカタカス州にある。”ロス・オルガノス”と呼ばれてる土地だ−−たぶん、岩がパイプオルガンみたいに見えるからだろう。実は写真を見たことがあって、この場所に行こってことになったんだ。結局4州もまたいでの大旅行になってしまったが、その甲斐はあったね。

−−二人は相手が見えないところで撃ちあいをする。それは現実を見ていないことを表しているわけですね。まるでアンソニー・マンの西部劇のようだと思ったんですが?
コックス ああ、それは面白いな。特に意識はしなかったが、アンソニー・マンの西部劇はたくさん見たから、そういう可能性はある。子供のころ、よく見たよ。アンソニー・マン、バッド・ベディカー……

−−それは主人公を単純なヒーローとして扱うのをやめた映画です。
コックス サイコロジカル・ウェスタンだな。サム・フラーの『赤い矢』とか。主人公が曖昧な、二重性をそなえた存在であるわけだ。ホークスやフォードの映画と違って。ふうむ、そうあって欲しいね。確かにぼくの映画でも、ヒーローは単純で、ナイーヴで、オプティミスティックな存在として登場するが、しだいに堕落し、腐敗してゆく。

−−アンソニー・マンはまた、空の出てこない西部劇だったわけですが、『エル・パトレイロ』にもなかなか青空が出てきませんね。はじめて空を映すのは、主人公の親友アニバルが死ぬシーンです。
コックス そうなんだ。映画のはじまりはメキシコシティーで、メキシコシティーのシーンはすべて黄色のフィルターをかけて撮影している。実際よりずっと汚く、汚染されて見えるように。それから田舎に行くとフィルターははずれるが、まだ光はささない。はじめて光が差しこむのは、ペドロが賄賂を受けとるところだ。彼が堕落して、道徳的に腐敗すればするほど、周囲の風景は美しくなってゆく。最後にはすばらしい光景が広がっているんだが、彼にできるのは相手を撃ち殺すことだけだ。あの美しい光景のバックで。

−−この映画の中でいちばん好きなシーンはイグアナ売りの少年が出てくるところです。あの子たちは素人だと聞いたんですが?
コックス いや、あれはおかしかった。実はメキシコシティーで子役を雇って連れていったんだけど、向こうにいた子供の方がずっと面白かったから、その場で代えたんだ。撮影現場は百マイルも北に行ったところだった。迎えを出したら、いるのはあの3人の子供だけなんだ。親もいない。誰もいない。撮影は2日あるんだぜ、どうしろってんだい! しょうがないからホテルに部屋を取ってやった。そうしたら部屋のテレビでホラー映画をやっててね、それを見て子供がおびえてしまったんだ。しょうがないからぼくとセシリアの部屋に来ちゃってね。ツインの一方のベッドにぼくら二人、もう一方に子供を入れて、それで二晩過ごしたんだ。もう野蛮な子供で、あれは参った(笑)。

−−ほとんどシュルレアリスティックで、まさにメキシコという気がします。
コックス 確かに。それにまたアイロニックなのは、正義に燃えていた主人公は、結局子供を逮捕するぐらいのことしかできないってことだな。彼の人生がいかに無意味かということだ。

コックス 実はドイツのホフ映画祭で、ぼくの映画の回顧展をやったんだ。6本の映画を続けて見るのは興味深いものだった。そこには共通するヴィジュアル・スタイルらしきものがあったから。どの映画もキャメラマンは違っているのにね。正確にどんな風にと言うことはできないんだけれど。ただし、ヴィジュアル・スタイルという面では、『エル・パトリエロ』はこれまででもっとも完成したものだと思う。画面と、編集について思いめぐらし、プランをたてる時間があったからね。
−−予算は制限にならなかったと?
コックス ぼくの経験で言うとね、金がないほど、自由は増える(笑)。金があるほど、自由はない。もしトライスターで『ゴジラ』を作ることになったら、これとはまったく違った映画作りになるだろうね。ここでメル・ギブソンのアップ、ここでミシェル・ファイファーのアップという具合で(笑)。実際、現代の映画作りでもっとも気に入らないのは、まったく意外性がないという点だ。とりわけ編集の点で。どの映画も同じだ、退屈きわまりない。

−−これはゴダールが言っていたことで、それをコッポラがインタビューで引用してるんですが、「現在アメリカのトップ・ディレクターを10人並べて、クレジット・タイトルを取り去ってしまえば、どれが誰のものか、まったく区別つかないだろう」。
コックス まったくその通り。コッポラも含めてね(笑)。マーティン・スコセッシも含めて。そうなんだ、たとえば……たとえば『プレイヤー』を見たまえ。誰もがあのオープニング・ショットのことばかり話す、「なんとすごいオープニングだ、アルトマンは天才だ」と。さりげなく『黒い罠』の話など散りばめてね。だけど映画の残りはカスみたいなもんだ。アルトマンは評論家に「さあ、ここんとこを見たまえ」と差しだしてるだけ、残りはテレビだよ。コッポラの映画もみんなそうだ、次々に詰めこむだけで、脈絡もなく。締まりもない。[ノー・シェイプ]

−−腹にも締まりがないし。
コックス (爆笑)コッポラもスコセッシも、アメリカの監督はみな俳優から離れてしまっている。俳優から離れて、ビデオ・モニターを覗きこむばかりだ。トレイラーに座りこんで、映画と離れてしまっている。そうじゃないはずだ。それは別のプロセスだよ。セットに立ち会わなきゃならない。俳優たちというのは信じられないものなんだ。俳優は監督のために演じるんであって、カメラのためじゃないんだから。トレイラーに座っていちゃあ、俳優と監督のあいだを流れる魔法を、エネルギーを感じられない。残るのはテクノロジーだけだ。

−−映画の規模が大きくなると、監督は全体を統括するだけで手いっぱいになってしまうんじゃないでしょうか。
コックス それにまた、そういう大予算映画は、それ自体が政治的プロセスだからでもある。コッポラは政治が好きなんだ(笑)。スタジオと交渉して、金をかき集めて、重役を案内して……それはたしかに驚くべき、巨大で、ゴシックじみた、複雑な機械だ。でも映画とはなんの関係もない。彼の最高傑作は実際には小さな映画なんだよ、個人的な作品『カンバセーション…盗聴…』。

−−『雨のなかの女』?
コックス そう、『雨のなかの女』はすばらしかった。セルジオ・レオーネのキャリアも同じだ。彼もどんどん予算を大きくしていった。だけど最良の作品は、最初のいくつかなんだ。映画が大きくなればなるほど、つまらなくなってくる。複雑だな。

−−とはいえ、あなたはいまだにアメリカ映画を見る。何にそんなにもひきつけられるんですか?
コックス それはむしろ、アメリカ文化というべきだろう。アメリカ文化は普遍的文化でもある。アメリカで起こったことはなんでも、ただちに、世界中で起こる。だから、多かれ少なかれ、その文化とはかかわりを持たないわけにはいかない。これはもうずっと以前からの疑問なんだが、なんで英国人がロバート・デ・ニーロとメリル・ストリーブのラブ・ストーリーを見たがるのか? なんでペルー人が『黄昏』を見るのか? それは奇妙なことだよ。われわれはみんな独自の文化を持っているのに、それよりも世界のメイン・カルチャー、つまりアメリカ文化を選んでしまう。こうして植民地化のプロセスが進行してゆく。ごく、ごく希に映画にもそのプロセスの裏側がかいま見えることがある。たとえば『JFK』だ。あれがとても面白いのは、世界が邪悪だと言うことを教えてくれるからだ。あの映画の主張が正しかろうと間違ってようと、ある心理的な意味ではあの映画は正しい。あそこでは何かが起こって、アメリカ社会の暗黒面をさらけ出したんだ。オリバー・ストーンの他の映画とさえ衝突している。『プラトーン』や『ウォール街』や、あれは究極的には楽観的な映画だ。善があって、悪がある。監獄へ行って、心を入れかえろ! だけど『JFK』は違う。ケヴィン・コスナーのキャラクター(ジム・ギャリソン)にもかかわらず、最後にはあの映画はとても暗い、暗いものがあるという印象を与える。とても面白い。そう、もしかしたら、仮面の裏側を探るのは面白いことかもしれない。文化の表面でなく、その下で何が起こってるかを知ることは。

−−『ウォーカー』であなたが試みたのは、まさにそれだったんじゃないでしょうか。もちろんあれは具体的な侵略がテーマだったわけですが。
コックス 『ウォーカー』はとても否定的な主張を描いたものだ。明白な運命だ[マニフェスト・ディスティニー]だ! 征服しろ! という奴。だけど彼は、それをニカラグアの政治家と取り引きすることでやるんだ。ニカラグアにも「最高だ! アメリカが来たら、権力は俺たちのものだ!」とか考える連中がいる。『ウォーカー』は左翼に嫌われたんだが、それはおそらくこういう形の腐敗は世界的なものだと示したからだろう。極左の人間は『ウォーカー』を気に入ったし、極右の人間も『ウォーカー』を気に入ったんだ。
 まったく笑ってしまうんだが、ぼくは、政治的には、たとえばジョン・ミリアスのような人間の方によっぽど近いんだ。リベラルよりはね。もちろんミリアスとは何一つ意見は一致しないよ。アメリカの正義だ! ヴェトナム万歳! じゃね。ただ、右翼の人間は、人間が基本的に悪いものだ、と考えても別に困らない。ミリアスは『ウォーカー』を気に入ってたよ。だけど左翼、リベラルは人間精神の可能性を信じている。「ぼくらはこんなにもすばらしい。ただ天国へ帰る道さえ見つかれば」天国なんて無いんだよ。
 だからおかしいのは、ぼくとはまったく離れている右翼の人間も、自分たちが疎外されてると感じてることだ。ミリアスはいつも不平たらたらだった。「くそっ! 俺はブラック・リストに載ってるから、映画が作れねえんだ! 俺が右翼だからって! ファッキン・リベラルめ!」面白いというのは、ある意味では彼の言うことは正しい。極右と極左は排除しようという了解があるんだ。そしてもちろん、いちばん狂ってるのはそいつらだし、いちばん面白いのもそこなのさ。


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Kiichiro Yanashita / 柳下毅一郎 / yanasita@gol.com