解放されたフランケンシュタイン

初出『イメージフォーラム』95年7月号
 ティム・バートンの最新作、『エド・ウッド』最大の問題点はこれが実話だと言うことだろう。どんなヘンな話があっても、すべて実話だからしょうがない。たとえば中盤に出てくる“水を飲まない女”ロレッタ・キングのエピソードだ。彼女は本当に水を飲まなかったのか? 飲まなかったとしたら、その後どうなったのか? そしてなぜ、わざわざそんなエピソードが取り上げられているのか? どの疑問にも答はない。なんせこれは本当の話なのだ。実際にロレッタ・キングという人がいて、「自分は水にアレルギーだから水が飲めない」と言っていた。なんの意味があったのかはわからない。本当の話にはオチがないのだ。
 全編がこの調子で展開する。すべてのエピソードをティム・バートンの作家性に帰着させるのは、したがってちょっと無理である。だが、まちがいなくティム・バートンの刻印が押された人物もいる。たとえば主人公の映画監督エド・ウッド・ジュニアだ。ここではエド・ウッドの顔に刻みこまれたバートンの印を確認していこう。

仮面をかぶったヘンな人


 エド・ウッドは女装マニアである。女性の下着をつけるのを好み、軍隊にいたときは、軍服の下にブラとパンティという姿で落下傘降下していた。一番のお気に入りはアンゴラのセーターで、自分でも着ていたし、GFにも着せて喜んでいた。これすべて、映画に描かれている通りである。しかし、エド・ウッドは尋常の女装マニアとは少し違っていた。彼は自分の好みを隠そうとしなかったのだ。別に恥ずかしいことだとは思っていなかったふしがある。ちょっと他人と違う服を着る、という程度に考えていたのではないか。
 映画の中では、一応エドはガールフレンドに女装を隠していることになっている。だが、その行動を見ている限り、とても女装を恥じている人のようには見えない。女装マニアをテーマにした映画を作り、その主役を自分で演じるというくらいだ。エド・ウッドを“服装倒錯者”と呼ぶのは誤りだろう。本人にとっては、これは倒錯でもなんでもないのだから。
 実際、エドは大まじめである。自分がどんなおかしな格好をしているか、まったく気づいていないようだ。この点で、ジョニー・デップの女装は実に見事である。自然さをまったく感じさせない。『クライング・ゲーム』のジェイ・デヴィッドソンとはまったく違う。誰がどう見ても男が化けている女装にしか見えない。だが、本人にとってはあくまでもこれが一番自然なことなのである。
 周囲から浮きまくっているのに当人は普通だと思っている男。それはもちろんバットマンのことである。
『バットマン』『バットマン・リターンズ』のバットマン/ブルース・ウェインは夜闇の中に生き、悪を倒す正義のヒーローである。少なくとも、コミックの中ではそうなっている。正体のブルース・ウェインは超スマートな大富豪で、バットマンは崇高なる闇の化身だ。だが、ティム・バートンが描くバットマンはそんなものじゃない。正義のヒーローなぞどこへやら、悪人以上に邪悪な存在になってしまった。バートンが前面に出てきた『バットマン・リターンズ』では特に著しい。爆弾をかっぱらうと敵の腹にぶちこんで爆死させる。敵(ペンギン)を攻撃するには会話を盗み録りし、編集して流すという卑劣さである。なんせ格闘で相手を叩きのめすシーンがひとつもないのだ。悪人以上に悪辣と言っても過言ではあるまい。
 バットマンはペンギンが名士としてのし上がっていくのを見て、「あいつはきっと何か悪いことをしでかすに違いない」と考える。そして慈善活動にいそしむペンギンを監視しつづけるのである。実際ペンギンは最後に悪事を働くわけだが、この時点では彼を疑う理由など何もない。これはもはや悪党の勘としか言いようがない。悪人は悪人を知る、のである。
 誰がどこから見ても完全な悪党。だがしかし、バットマンただ一人だけは自分が正義であることを疑わない。側から見れば「マスクをかぶったヘンな奴」に過ぎないのに。自分では当たり前だと思っているが、滑稽な愚か者にしか過ぎない人間。それはバートンの自己認識でもある。

ハリウッドのはぐれ者

 エド・ウッドはハリウッドのはぐれ者である(もちろん、自分ではそうだとは思っていない)。ハリウッドのパワーゲームに加わることはできないし、メインストリートを歩くことはない。なぜそうなってしまうのか、エドには理解できない(才能がないからだ、とは思い至らないのである)。
 エスタブリッシュメントからはじき出され、どうやったら中に入れるのかわからない存在。これまたティム・バートン映画にはおなじみだ。
 ティム・バートンがLA郊外の町で過ごした幼年期についてはすでにあちこちで語りつくされている。バートン映画のすべてが「郊外のはぐれ者」テーマの変奏曲[ヴァリエーション]だと言っても過言でない。「何の感情もない、空っぽの場所」である郊外宅地で、当時ティム少年が感じていただろう疎外感がバートン映画の原動力だ。『フランケンウィニー』では墓場から呼び戻されたペットの犬が、たいまつを持った町人たちに追われる。この実質的リメイクである『シザーハンズ』でも、ハサミ少年エドワードは町から追われてしまう。どうしても町の中に溶けこめず、他人を傷つけずにはいられないエドワードは、若き日のティムそのものだ。美容院で年上女に誘惑されるシーンで、エドワードは両手を広げてわざと壁にぶち当たる。両手で殉教の十字架を作るのだ。
『シザーハンズ』は『フランケンウィニー』のリメイクだが、その『フランケンウィニー』は『フランケンシュタイン』へのオマージュである。実際『フランケンシュタイン』はバートン最愛の怪物映画だと言う。望んだわけでもないのに、はぐれ者として生を受け、追われねばならぬ怪物の悲しみ。それは暗く陰鬱な青春時代(今もあまり変わってないようだが)を過ごしたバートン本人の悲しみでもある。
 実際、バートン映画はほとんどはぐれものとモンスターのふきだまりのように見える。人間社会からはぐれて、フリーク・アウトしてしまったフリークたちが跳梁ばっこする。ハサミの手をしたエドワード、ヒレ手になったペンギン(みな「手」に奇形を持ったフリークである。フランケンシュタインの怪物から来るものか?)、口裂け男のジョーカー、骸骨男ジャック(『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』)。みなが人間の仲間に受け入れてもらえない悲しみを訴える。もちろん彼らは社会を脅かす存在だ。だが、ペンギンは市長となる夢が破れてはじめて子供の誘拐に走るのだし、ジャックが郊外の町に災厄をもたらすのは良かれと思ってのことである。フランケンシュタインの怪物は邪悪な思いがあって子供を殺すのではない。それしかできないからなのだ。不器用な手を持って生まれたのはフランケンシュタインの罪ではない。だからティム・バートンのフリークたちは悲しいのだ。

不滅の愛

 では、そんな悲しいフリークたちは何をするのか。
『エド・ウッド』の中で記憶に残るのはエドが走りまわる姿である。エドは一時たりともじっとしていることができない。友人たちのあいだを走りまわり、金策のためにスポンサーを探しまわり、ベラ・ルゴシから呼ばれて御用聞きの役を果たし、いざ撮影となると一瞬も休まずに全員に指示を与えセットの中を走りまわる。演出しているときも、自作を見ているときも、自分で全部の役を演じつづけている(手を振りまわし、口をパクパクさせながらの映画見物こそ、この映画のハイライトだ)。実際のエド・ウッドもそういう人間だったようだが、この際そのことは重要ではない。
 エド・ウッドの落ちつきのなさと言ったら、まるで尻尾をふってじゃれつく子犬のようである。だが、これはさして驚くべきことではなかろう。ティム・バートンにとって、「犬」は究極的に善なるものだからだ。
『フランケンウィニー』で、孤独な科学少年の唯一の友人は愛犬である。フランケン少年が犬を甦らせようとするのは、友人が恋しいからこそなのだ(その点では『フランケンシュタイン』というより『ペット・セマタリー』的だと言うべきだろうか)。『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』でも事情は変わらない。この映画の原型となっているのは、ティム・バートンが描いた詩の絵本である。この絵本の中では、ハロウィンの王様ジャックの気持ちを理解しているのは赤鼻の幽霊犬ゼロただ一匹である(映画のヒロイン、サリーのキャラクターは、あきらかに絵本におけるゼロの分身だ)。
 これがティム・バートンの実際の経験でないとは考えにくい。実のところ、バートンにとって少年時代の友人は犬だけだったという(なんと暗い青春!)。「犬は忠実な友達なんだ。いつも、無条件で、受け入れてくれるんだ」とバートンは言う。「無条件に愛を受け入れてくれる相手」それがキーワードなのだ。裏返せば、いかにバートンの愛は受け入れられなかったかということでもある。
『ナイトメアー』の幽霊犬ゼロ(/サリー)は誰よりもジャックの気持ちを理解し、ジャックのことを気遣っている。だが、ジャックの方は相手がいることにすら気づいていない。愛は一方通行であり、決して相手に届かないのだ。バートンの映画では、いつも一方通行の愛が語られている。ほとんど無意味な愛さえ登場する。『ピーウィーの大冒険』でピーウィーは自転車に固執する。『バットマン・リターンズ』ではキャットウーマンは最後の最後にバットマンを拒絶する。それにもちろん『シザーハンズ』でキムに報われぬ愛を捧げるエドワードがいる。愛は報われない。
 ティム・バートンは怪獣映画マニアである。郊外宅地の決まりきった日常生活にうんざりしていたティム少年にとって、日常を打破してくれそうなのは唯一、怪獣だけだった。だがモンスターはつねに敗北する。2時間たてば、また無味乾燥な日常が戻ってくるのだ。ティム少年の感情生活について知るすべはないが、『シザーハンズ』の描写から想像するかぎり、あまり明るいものではなかったろう。そんな彼が、つれない美女フェイ・レイに翻弄されて死ぬキング・コングや、ただジュリー・アダムズの愛を求めていただけの大アマゾンの半魚人に、自分の思いをかたくしたとしても不思議なことではない。すべてが美女に愛を捧げて死んでゆく野獣の物語だ。報われず、許されないモンスターの愛。それがバートンの愛だったのである。
 では、エド・ウッドは何を愛しているのか? 決まっている。ウッドは映画監督になることを愛していたのだ。映画そのものよりも深く愛していたかもしれない。だが悲しいかな、ウッドには才能がなかった。ウッドの映画への愛は、決して報われることなき不毛な愛だったのである。

自分がイチバン!

 一見なんの悩みもなさそうなエド・ウッドだが、ただ能天気なだけで生きていけるわけがない。いずれは自分の無能さと向き合わねばならないときが来る。現実のエド・ウッドも、死ぬ前にようやく自分には映画監督の才能がないことを悟った(それまで気づかなかったことの方が驚きだが)。困窮し、酒びたりの苦しい晩年だったという。
 つまり、現実のエド・ウッドには現実から逃れるすべはなかったわけである。「自分は天才映画監督である」と夢想し、ハリウッドを走りまわっているあいだは逃避もできた。だが、いつかは現実に追いつかれる日がやってくる。ウッドの惨めな死は当然の帰結だったとも言えよう。
 だが、映画の中では、ティム・バートンはひとつの逃げ道を用意している。
『プラン9・フロム・アウター・スペース』の撮影中、出資者とのトラブルでセットを飛び出したウッドは、場末のバーで酒をあおる。このとき、彼には現実を理解できるかもしれない瞬間があった。現実を理解し、映画監督になることを諦める道が目の前にあった(それはそれで、そう悪いことじゃない)。しかし映画はそうはならない。バーの片隅に、神々しい光を浴びて座っているオーソン・ウェルズの姿を見るのだ。
 オーソン・ウェルズはウッドの奇怪な女装姿を見ても眉ひとつ動かさない(だからこのシーンは、あるいはウッドの妄想かもしれない)。そしてウッドに優しく語りかける。自分のヴィジョンを信じろ。「他人の夢を撮ってどうする。映画はきみのものだ。きみの夢を撮るんだ」ウッドはこの言葉に勇気百倍。「ぼくはぼくでしかないんだから、自分にできることをやるだけだ!」
 このシーンには『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』のジャックの回心がこだまする。自己流のクリスマスをやろうとして郊外宅地に大惨事を引き起こした(これは少年ティムの願いだったという。ジャックみたいな奴がやってきて、クリスマスをハルマゲドンに変えること)。ジャックは、自分は他人に愛や喜びをもたらすことはできないんだと悟る。そして誓うのだ。「ぼくはぼくにできることをやるだけだ。恐がらすことしかできないんだから、じゃあ世界中の人を恐怖に震えさせてやる!」
 たぶん、ディズニー社をやめたあとのバートンの心境も同じだったろう。アニメーター机にしばりつけられ、まるで苦手な可愛いディズニー・アニメのキャラクターばかり描かされる苦痛から逃れたあとの、バートンの思いだったはずだ。このときはじめて、バートンは真に解放された。
 まわりに順応できないならば、順応するのをやめればいいだけのことだ。そう開き直ってしまえば、怪物なのもそう悪いことじゃない。自分がモンスターだと認めさえすれば、なんだってできる自由があるのだ(もちろん、最後には滅ぼされてしまうわけだが)。『ビートルジュース』のビートルジュースは怪物の中の怪物にしか与えられない自由を手にしている。ジョーカーもペンギンもキャットウーマンも、みな怪物となって世界に災厄をもたらす。だが、モンスターとして生まれついたものの自由は、唯一そこにしかない。自分が怪物であることを認めたとき、フランケンシュタインはくびきを解かれ、ようやく世界に解き放たれるのだ。
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Kiichiro Yanashita / 柳下毅一郎 / yanasita@gol.com