デヴィッド・クローネンバーグ インタビュー

(初出『エスクワイア』97年2月号)

 デヴィッド・クローネンバーグはテクノロジーによる人間の変形にとりつかれている。クローネンバーグは異常性交が大好きだ(とりわけアナル・セックスが)。クローネンバーグはスピード狂である。ここまで条件がそろっているのだから、『クラッシュ』の映画化にここまで時間がかかったことの方が不思議なくらいだ。映画化不可能と言われた『クラッシュ』だが、できる人間がいるとすればクローネンバーグだ、それは衆目の一致するところ。事故体験だってある。
「わたしの唯一の事故体験はバイクに乗っていたときだ。それにレース場でも事故にあったことがある。大事な62年型フェラーリをフェンスにぶちこんでね。だが、公道上の事故とはまるで違うがね。ヘルメットもあるし、防火服も着ている。それはもちろん『クラッシュ』の中で描いたのとはまったく違うものだが、それでもやはり自動車は非常に刺激的で、特別な現象だということを教えてくれるものだ」
 映画の中では、衝突はひどく唐突なものとして描かれる。衝突事故にまつわるクリシェ−−時間が引き延ばされ、スローモーションに−−は存在しない。
「車とセックスというのは、映画でもっともありふれたものだ。だからそれをまったく異なった視点から見ようとした。どんな映画でも、事故のシーンではスローモーションがたっぷり使われ、いくつものアングルからショットが繰り返される。それが見る側のリアリティになってしまっている。だからわたしはもっとリアリスティックなかたちで見せようと考えた。ひどく早く起こり、音もないが、実際に起きているのはそういうことだと思う。そこに奇妙な印象を覚える人もいるようだが、それは映画のリアリティに慣らされてしまっているためだろう」
 それは登場人物のオブセッションが目に見えるかたちで(『裸のランチ』のように、あるいは『ヴィデオドローム』のように)表現されない−−車が変形し、息づきはしない−−ことに呼応しているだろう。
「変形しているとも。車もやはり登場人物だ。車は人間になる。ヴォーンに姿を変える。生きているんだ」
 たしかに、映画が進むにつれて、人間は車を擬態し、車は人間を擬態するようになる。人はエンブレムの入れ墨を入れ、衝突した車は傷跡を残す。
「それは毎日の日常生活で起きていることのメタファーなんだ。別に車に物理的に融合しなくとも、車の一部にはなれる。われわれは車を身体の延長にあるものとして扱っている。それは時空間把握の一部になっているんだ。たとえば電話−−携帯電話を持ち歩いている人たちにとっては、あれは耳の延長だ。脳の一部であり、神経系の一部なんだ。だから映画の中で描かれているすべては、すでに起きていることのメタファーに過ぎないのだ」

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Kiichiro Yanashita / 柳下毅一郎 / yanasita@gol.com