『コリン・マッケンジー/もう一人のグリフィス』

(初出『エスクァイア』99年11月号)


 ドキュメンタリーとフィクションの境界はどこにあるのか。教科書的に答えるなら、現実をそのまま描くのがドキュメンタリーで、現実でないものがフィクションだ。だが、実際のところ、これは厳密に分けられるものではない。優れたフィクションには必ず生の現実が露呈する瞬間があるし、優れたドキュメンタリーは現実を再構成する。現実を構成するさまざまな要素を切り張りして観客に提示するのだ。そのとき、ドキュメンタリーは限りなくフィクションに近づく。ふたつは真実を見いだすための異なる方法に過ぎないのだ。

 ピーター・ジャクソンが『バッド・テイスト』でデビューを果たしたとき、ニュージーランドに映画産業は存在しなかった。ジャクソンは監督、脚本、編集、音楽、特撮、主演をたったひとりでこなして、ゼロから映画を作りあげねばならなかった。ジャクソンはニュージーランド映画の孤児である。『乙女の祈り』でニュージーランドを代表する映画監督になろうと、父なし子の身に変わりはない。そこでジャクソンは一風変わった挙に出た。ないものは、作ってしまえばいいのだ。

 ジャクソンが子供のころ、近所にハナという老婆が住んでいた。成長してからはすっかり音信不通だったのだが、ある日、母親を通じて連絡があった。亡夫が残したフィルムが納屋に眠っているので、始末してくれないかというのだ。どうせ8ミリのホームムービーだろうとたかをくくって見に行ったジャクソンは35ミリのフィルム缶を見て仰天する。幻のニュージーランド映画の父、コリン・マッケンジーがそこにいた。

 前世紀に生まれたコリン・マッケンジーは映画の魅力に取りつかれ、辺境ニュージーランドにあって独力で映画を発明した。ジャクソンは次々にマッケンジーの驚くべき発明を開陳してゆく。いわくライト兄弟よりも早い世界最初の飛行を撮影した。いわく世界初のオール・トーキー映画を作った。カラー映像を発明した。ついにはジャングルを切り開いて巨大なセットを建て、『イントレランス』に匹敵する聖書巨編を作りあげるのだ。

 次々にくりだされる証拠映像にはひたすら感嘆だが、残念ながらこんなに魅力的な話はありえなかろう。ジャクソンは事実と事実を貼りあわせて偽の歴史を作りあげたのだ(手口はきわめて巧妙で、とても本当とは思えぬエピソードが事実だったりする)。本国ではドキュメンタリーとしてテレビ放映され、多くの人が信じこんだ。

 もちろんジャクソンはタチの悪いジョークのつもりだったろう。だが、ここにはまちがいなく真実のかけらがある。独力でジャングルを切り開くコリン・マッケンジーはニュージーランド開拓民のアナロジーであるのと同時に、一人で映画を作りあげたピーター・ジャクソン自身のことでもある。マッケンジーのドン・キホーテ的試みは優れたジャクソン論になっているのだ。ここにはまぎれもなくニュージーランド映画が生まれる瞬間がある。真のドキュメントにしかない真実が。


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Kiichiro Yanashita / 柳下毅一郎 / yanasita@gol.com