(初出『エスクワイア』99年9月号)
誰だって、退屈な日常を破ってほしいと思っている。誰だって、自分が特別な「誰か」だと思いたい。それはスポーツマンでもなく、パワー・エリートでもなく、社会の隅でキーボードを叩くしか能のない人間にとってはとりわけ切実な願いだ。かつて華々しく登場したとき、サイバーパンクはまちがいなくそういう人間にとっての希望だった。ネットで人格を拡張すれば、退屈な自分から逃れられるかもしれない。だが、結局のところ救いはなかった。それがネオ=キアヌ・リーヴスの現状である。結局、救いは天の声として降ってくるしかないのだ(未来から猫型ロボットが訪れ、天から鬼娘が降ってくるように)。ネオは新たな自分に目覚め、薬を一服呑んで現実の本当の姿を知る。今は1999年ではない。みなが現実と思っているものは現実ではない。それはマトリックス、コンピュータ・ネットワークの中に浮かぶ幻影なのだ。マトリックスはいかようにも変えることができる。ルールさえ知れば、プログラムを書き換えるなどたやすい。ネオは(きみは)マトリックスの中を自由自在に飛びまわるだろう。つまり、現実を書き換え、真の王者となれるのだ。
『マトリックス』はきわめてシンプルな願望充足物語である。ネットに浸かり、クラブでEを決め、わずかばかりの現実逃避を引き延ばしている者のための(実際、ネオは「若いうちでないと現実変化には対応できない」と警告される。これが「ドント・トラスト・オバー30」のバリエーションでなくてなんだろう)。だが、願いが単純であればあるだけ、それはたやすく悪夢にすり替わる。マトリックスを思いどおりに操れるようになったネオの願いはただひとつ「銃を。銃をたくさんくれ」、そしてサングラスに黒のロングコートという姿でネオはマシンガンを乱射するのだ。
もちろん、この映像はすでにおなじみのものである。去る4月、コロラド州の高校ではトレンチコートに身をつつんだ高校生が同級生に向かって銃を乱射し、30人以上を死傷させたばかりだ。動機はさまざまに取りざたされているが、ひとつだけはまちがいない。“トレンチコート・マフィア”と名乗った犯人たちにとっては、怯える同級生たちに向かって引き金を引きしぼる瞬間こそが最高だった。それは退屈きわまりない日常を打ちやぶり、誰でもない自分を「誰か」にしてくれる瞬間だったのだ。映画が子供に影響を与えることはない。芸術は人生を模倣しない。だがときに人生と映画は同じ方向を向く。