『バッファロー'66』

(初出『エスクワイア』99年8月号)


 最近、インディーズと呼ばれる映画の画一化が著しい。すべてサンダンス映画祭のせいである。サンダンスで認められ、ミラマックスなどの手で全国配給を受けてメジャー進出というコースができあがっているからだ。サンダンス映画祭はメジャーへの食い込みを目指す映画学科の学生たちのトレーニング・グラウンドになった。残念ながら、学生たちは映画にするほどの経験を持たないので、いきおいどの映画も似たようなものになる。二十代後半から三十代前半の男女のグループが登場し、恋愛関係や自己実現にひとしきり悩んでみせるというたぐいだ。それなりに切実な悩みでもあるのだろう。だが、はたから見ているかぎりでは、それは無名の男女がくっついたり別れたりする映画でしかない。外部構造に定められるがまま唯々諾々としたがっていて、新しい映像表現が生まれるわけがない。それを打ち破れるのは個人の蛮勇だけである。

『バッファロー'66』は監督・脚本・主演を兼ねたヴィンセント・ギャロのワンマン・フィルムである。ほとんど自伝的作品でもあるらしい。物語は他人の罪を着て刑務所に入っていたダメ男が刑期を終えて出所するところからはじまる。服役のことは両親には告げておらず、ただ「仕事で外国に行く」と言っているだけである。そのあいだに結婚した、とも。顔を見せに帰ろうとすると、親から女房の顔を見たい、と言われる。行きがかり上、ギャロは近くにいた少女を誘拐して連れていくことになる。

 痛々しい話である。ヴィンセント・ギャロの身を切るような痛みは画面のこちら側まで伝わってくる。主人公は誰ともまともに会話ができず、目すら合わせられない。そこまでして会いに行く両親は、実際のところ、ギャロのことなど気にしてもおらず、一緒に食事をしながらも母親はビデオでアメフトの昔のゲームをくりかえし見ているだけだ。

 それにしても、こんな奇妙な食事があるだろうか。四人が正方形のテーブルを囲むのだが、カメラはつねにテーブルの一辺に垂直に向かっている。したがって画面はつねに同じ構図で、話し手に応じてカメラの方角だけが変わる。映画のプロなら、絶対にこんな撮り方はしないだろう。映画学校でなら不可がつくかもしれない。ギャロは映画の規範を学んでいないがゆえに、まったく新しい映像表現を作りだせたのである。

『バッファロー'66』は驚きの宝庫だ。ここだけではない。クライマックスがくりひろげられるストリップ・クラブのシーンなど、普通では絶対に考えつかないだろう(いや、思いついたとしても絶対に実行しないだろう)。史上最低の映画監督と言われたエド・ウッドは、映画について何も知らなかったがゆえに、誰にも真似のできない独特な映画を創りあげた。ヴィンセント・ギャロもまた誰にも似ていない映画を作った。それは誰も見たことがない映像、はじめて作った映画のように瑞々しい映画なのだ。


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Kiichiro Yanashita / 柳下毅一郎 / yanasita@gol.com