(初出『エスクワイア』99年7月号)
新聞社のコピーエディター、ジョジーは幼い容姿を見こまれて高校の潜入取材に送りこまれる。今時の高校生の実体をレポートしようというのである。だが、ジョジーにとってはこれはただの取材ではなかった。高校でイジメられっ子だった彼女にとっては、手に入らなかった青春を取りもどす二度目のチャンスだったのである。ジョジーはいさんで学校に乗りこむ。誰もがのぞむ、美味しく甘い夢。
ジョジーを演じるのはドリュー・バリモア。自分で製作も担当している彼女にとっても、これは二度目のチャンスだった。実際にその年齢だったとき、彼女には高校生活などなかった。コカインとアルコールの中毒で入院していたからである。彼女もまた手にはいらなかった高校生活を取りかえそうとしたはずだ。
ところが、高校に戻ったジョジーを待っていたのは昔と変わらぬイジメだった。そう、意外なことに、これは願望充足ファンタジーではない。そうではなく、映画はリアリスティックな悪夢の様相を呈する。ジョジーには弟がいる。高校時代には野球部のエースで学校一の人気者。だが学校を出たあとはそんなことはなんの役にも立たない。今ではしがない土産物屋の店長だ。弟はジョジーの惨状を見かね、みずから高校に転入してくる。自分が人気を集め、姉を盛りたててやろうというのだ(彼は高校でしか自己実現できない人間なのだ)。高校の人気者はいつでも人気者であり、イジメれっ子はいつまでもイジメられっ子。これをペシミスティックと言わずしてなんと言おう。この映画はアメリカの高校は生まれですべてが決定される階級社会なのだ、とはっきり告発しているのだ。
ここでいう“人気者”とはほとんどスポーツ選手と同義語である。クラスの人気を独占するスポーツマンとチアガール、それを指をくわえて見つめるイジメられっ子。この図式は永遠に変わらない。たいていの青春映画は後者に向けて作られる。マスコミがどんなイメージをふりまいていようと、世の中はルサンチマンをかかえたモテない人間で成り立っているのだし、映画を作ろうなどと考える人間は、多かれ少なかれ後者に属する者だからだ。そんな映画では主人公には二度目のチャンスが与えられ、かつて傷ついたエゴは優しく慰撫されることになる。だが一見コメディのような顔をした『25年目のキス』にはそんな優しい逃げ道は用意されていない。ヒロインは自力では何もできないが、人気者の弟から手が差しのべられた瞬間、特権階級の仲間入りをする。そしてそのときからためらいがちに差別をはじめるのだ。すべての出口はふさがれている。コメディは多かれ少なかれ人間不信的なものだと言うこともできよう。だが、メジャー映画における闇の深さには、アメリカの病理をかいま見せるものがある。