『ガメラ3ーー邪神覚醒』

(初出『エスクワイア』99年5月号)


 日本に怪獣が満ちあふれていたころには、誰もその意味を問うたりはしなかった。よく言うように、なくなってはじめてそのありがたみがわかるものである。怪獣についても同じだ。怪獣はなぜ存在するのか? どんな役割を持っているのか? そんなことをみなが考えはじめたのは怪獣映画の黄金時代がとっくに終わってからだ。それまでは怪獣が怪獣であるために批評など必要なかったからである。だが、今や怪獣が立つためにも批評的な視座がなければならない。

 金子修介(監督)/伊藤和典(脚本)/樋口真嗣(特撮)による新ガメラ・シリーズはそもそもの最初から先行する怪獣映画に対する批評的視点を持っていた。過去の怪獣映画の何がすばらしく、それがどこであやまってしまったのか。最初の『ゴジラ』はあんなにも人の心を惹きつけて離さぬのに、なぜ84年のリメイクは駄目なのか。それを考え抜いた上で『ガメラ』は作られている。作り手たちはなぜ巨大怪獣が生まれたのかを考え、それが人間を襲う理由も、人間を守る理由も考えた。怪獣ができるだけ怪獣らしく見えるような、これまで誰も見たことがない画面も考案した。それはいずれも現代に怪獣を登場させるためには欠くべからざるものだ。だが、そうした工夫以上に重要なことがある。ガメラ・シリーズは、怪獣がなぜ存在するのか、明快な答えをかえしているのだ。

 そう、怪獣は破壊するために存在する。ビルを倒し、人を踏みつぶし、町を炎上させることこそが怪獣の機能なのである。怪獣とは秩序の破壊者なのだ(だからこそ、子供は怪獣に快哉を送る)。町を破壊しないかぎり、どんなに巨大だろうと、放射能の霧を吐こうと、そんなものは怪獣ではない。アメリカ版『GODZILLA』が決定的に失敗したのはその点である。町を破壊しない怪獣に魅力などあろうはずがない。ゴジラが人間の味方になり、侵略者と戦いはじめたとき映画は力を失ったのではなかったか。実際、過去の怪獣映画はどの町をいかに破壊したか、というディテールのみによって語られることさえある。『空の大怪獣ラドン』は脚本の巧みな構成以上に、瓦一枚一枚が吹きとんでゆく福岡市街の破壊シーンで記憶されている。

 第一作『大怪獣空中戦』で『ラドン』へのオマージュとして福岡を破壊してみせた新ガメラは、今回は渋谷の町で荒れ狂う。またも復活したギャオスとガメラの戦闘で渋谷は壊滅、数万人の死者が出る。殺戮シーンは怪獣映画史上かつてなかったほど執拗に描写される。怪獣が暴れれば人は死ぬ。その当たり前のことを、これまでは誰も語れなかった。「子供向け」のラベルに縛られて。だが、実際には怪獣が人を殺し、町を破壊して暴れまわるほど、子供は怪獣たちを愛するのだ。かつてガメラは“子供の味方”として登場し、当の子供たちから嘲笑された。だが、人間の存在など意に介さずに破壊に酔いしれる新しいガメラ、旧作へのアンチテーゼとして生まれたこいつは、まちがいなく子供に愛される真の怪獣である。


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Kiichiro Yanashita / 柳下毅一郎 / yanasita@gol.com