(初出『エスクワイア』98年8月号)
まあ、それも無理もない。カナダは広く、人口密度は低い。一年の半分は雪に閉ざされている。滑りやすい道を一時間車を駆って人を殺しに行くくらいなら、暖かい家の中でぬくぬくと殺人の妄想を楽しんでいる方がよっぽど楽しいだろう。平和な家庭、暖かい子宮にくるまれて、カナダ人はゆっくりと狂っていく。たとえばデヴィッド・クローネンバーグの映画には車に乗っているシーンと室内で会話しているシーンしかない。そしてアトム・エゴヤンの映画ではいつもごく狭い家族のような人間関係が描かれる。その関係はやがて煮詰まり、必然的破局を迎えずにはいられない。
エゴヤンの新作『スウィート・ヒアアフター』ではカナダの田舎町が舞台になる。住人はみな知り合い同士であるような小さく平和な町。だが、その町の平和はある日突然に破られる。学校に向かうスクールバスがスリップ事故を起こして湖に落ち、22人が死亡する。事件は小さなコミュニティに消えない傷を残す。その傷からは醜くただれた膿がこぼれ落ちて来るだろう。
事件をネタに一稼ぎしようと考えた腕っこきの弁護士が町にやってくる。彼は住人を説得し、当局相手に訴訟を起こさせようとする。やり場のない怒りにかたちを与え、それを金銭に変える。それが男の仕事だ。彼は(まあ弁護士であるからして)徹底したマキャベリストとして描かれる。相手の顔を見ては口説き文句を変える様子にはなかなか笑えるものがある。だが、功利主義者であるだけあって、彼は自分の原則には忠実だ。つまり、真実を究明することである。だが、彼の調査は予想もしなかったものを掘り起こす。一見平和に見えた村の錯綜する人間関係が明るみに出されてしまうのだ。冷えた親子関係、不倫から近親相姦までが。
弁護士に対立するのは事件で一人娘をなくした男である。彼は弁護士に対し、くりかえし調査をやめるよう懇願する。村には村のやり方がある、水をかき回してもろくなことにはならない、と。彼は弁護士のやり方−−真実を究明し、不定形の怒りにかたちを与える−−は破局を招くことを知っているのだ。だが、映画はつねに破局をもたらすものの側に立つ。探偵は真実を解き明かす。たとえその結果がカタストロフをもたらすとわかっていても。だが、この物語に勝利者はいない。弁護士もまた、自分の調査が招いた破局から逃れられないのだ。この映画がモチーフにしたハメルンの笛ふきがそうであるように(大人たちの欺瞞を告発するのは笛ふきの踊りに間に合わなかったびっこの子供でる)、この物語にも「めでたしめでたし(スウィート・ヒアアフター)」はない。