『悦楽共犯者』
(初出『エスクワイア』97年9月号)
フェティシズムとは、優れて触覚体験ではないだろうか。もちろん、それは視覚にも聴覚にも嗅覚にもかかわっているだろうが、触感を抜きにしては語れない。触覚は原初の感覚にいちばん近いところにある。もっとも非文化的な感覚反応、と言ってもいいかもしれない。触覚がフェティシズムにいちばん近い、というのはそういうことである。
フェティシズムは誰でも理解できるものだが、誰もが実感できるわけではない。ビロードの手触りは当たり前に魅力的だが、それが真のフェティシズムにまでいたる−−ビロードを撫でるだけで絶頂に達する−−のは限られた人だけだろう。その快感は頭では理解できるが、だからといって感じられるわけではない。触ってみなければわからないのだ。
『悦楽共犯者』はフェティシズムにとりつかれた人々のお話である。ある者は指サックのゴムの手触りにとりつかれ、ある者はニワトリを解体して不思議な衣装を作る。一人はテレビに写るニュースキャスターを見つめながら奇怪な機械を作りあげ、一人はせっせとパンをこねつづける。すべての妄想がはじける日曜日を目指して。
フェティシストたちは執拗に容赦なくどこまでも自分の快感を突き詰める。ときには滑稽なくらいにまで。毛皮の肌触りにとりつかれた男は、望みの毛皮を手に入れるため、カミソリを手に町中を歩きまわる。なんとしてもお気に入りの毛皮を切り取るのだ! バカバカしいが、しかしその行動は崇高でもある。最良のブニュエル映画のように、フェティシストの悲劇と喜劇がないまぜになる。
そもそもヤン・シュワンクマイエルの映画はどれも深く肉感的だ。シュワンクマイエルの人形アニメはスムーズには動かない。むしろごつごつとして、素材をそのままに命を与えたように見える。粘土を使ったアニメではなく、粘土そのものが動きだすのだ。たぶん、今ならCGで手間も時間もかけずに同じことが実現できるだろう。だが、シュワンクマイエルがCGに手を染めることはあるまい。彼はあくまでも(いまや時代遅れの技術になった)モデル・アニメーションに固執する。愚かしいまでに。崇高なまでに。フェティシストたちが刷毛の肌ざわり、パンの手触りにこだわるように、シュワンクマイエルは粘土を手でこねまわす快楽にこだわっているのだ。その快楽なくして、映画を作る意味などあるだろうか?
だが、あのフェティシストたちがシュワンクマイエルその人だとしたら、それを見ているぼくらはどこにいるのか? 映画が『悦楽共犯者』と名付けられているのはなぜだろう? 雑誌屋の主人はニュースキャスターに妄執をいだき、奇怪なオナニー・マシンを作りあげてテレビをなですさる。そのとき思わず画面の美女があげる恍惚の呻きは、いつのまにか秘め事に参加してしまったぼくらのものでもある。
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Kiichiro Yanashita / 柳下毅一郎 / yanasita@gol.com