『ラリー・フリント』
(初出『エスクワイア』97年8月号)
オリバー・ストーンはいつもけたたましく騒ぎ立てる。『JFK』ではケネディ暗殺の陰謀説を主張して騒ぎをおこし、『ナチュラル・ボーン・キラーズ』ではメディアにおける暴力の賛美を告発して論議を巻き起こした。告発、と言ってもストーンのやり方はちょっと変わっている。ストーンは告発を口実にして、暴力賛美の映画そのものを作るのだ。それで騒ぎが起こって映画が話題になれば言うことなし。告発はただの口実に過ぎず、最大の目的は話題作りにある。
なんともタブロイド的な発想だ。ストーンはけばけばしく、これ見よがしで、あからさまに偽善的だ。ほとんど魅力的に感じられるくらいに(なんであっても、徹底しているというのはひとつの美徳である)。それを思えば、ストーンがラリー・フリントの生涯を映画化しようと考えたのも当然だろう。
ラリー・フリントは米国で最初のハードコア・ポルノ雑誌〈ハスラー〉の編集発行人である。〈プレイボーイ〉にはヌードは載っても性器のアップはない。だが、フリントにはそんな慎みはなかった。彼にとって意味があるのはエスカレートと刺激だった。自然、〈ハスラー〉は性器のアップ、黒人と白人の絡みヌードとショック路線を追求してゆく。やがて当然ながら公然猥褻で告発されると、裁判では言論の自由を主張して争う。
わざと問題が起きそうなものを狙って作り、それが問題にされると大騒ぎをしてみせる。これがストーンの映画作りでなくてなんだろう。ストーンなら、そのまま映画にすれば良かったのだ。おそらくセックス描写たっぷりのものになり、レーティングをめぐってMPAAと派手な騒ぎをくりひろげることになったはずだ。さぞかし耳目を引きつけたことだろう。
ところが、どうしたわけか、ストーンはこの映画を監督しなかった。ミロシュ・フォアマンに監督をまかせて、プロデューサーに身を引いたのである。
フォアマンはきわめて真面目にこの映画に取り組んだ。フリントの裁判はきわめて真剣な戦いとして描かれるし、ジャンキーになってしまう妻の死は大いなる悲劇だし、二人の愛は永遠だ。フリントは所詮ポルノ屋だが、それでも彼には偉大なところがあったのだ。
そのとおり。でもそれだけではない。
チェコ生まれのフォアマンにはおそらくわからなかったのだろう。フリントの人生は徹底的に低俗[スリージイ]だ。だが、低俗には低俗なりの魅力がある。ホワイト・トラッシュそのもののウディ・ハレルソン、全身ジャンキーのコートニー・ラヴはその一端を見せてくれている。そして完璧なラスヴェガス趣味に統一されたフリント邸。あとはストーンの手だけだ。ストーン自身が監督すれば、映画そのものが体現して見せてくれたはずだ。フリントは悪趣味なポルノ屋であり、それゆえに偉大だったのだということを。
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Kiichiro Yanashita / 柳下毅一郎 / yanasita@gol.com