『フェティッシュ』
(初出『エスクワイア』97年3月号)
映画の中で人が死ぬのは現実の出来事ではない。当たり前だ、と言うなかれ。その発明がクエンティン・タランティーノに未曾有の成功をもたらしたのだ。タランティーノにとって、映画の中の出来事は映画の中のことである。だから、彼の映画では大勢の人が死ぬ。格好良く、クールに。そこにはあまり痛みはない。『トゥルー・ロマンス』でクラレンスが言うように「若く死んで、きれいな死体を残せ」これはそう悪いことではない。その軽さがあればこそ、タランティーノはハリウッドの寵児になったのである。タランティーノにとっては殺人はゲームである。人が死ぬのは画面の中で血を流して倒れることでしかない。それくらい軽くなければ、死をクールに描いたりはできないのだ。
死を好んでテーマにしながら、死への現実感が欠けている。それはタランティーノ一人でなく、“タランティーノ一派”と称される者に共通の特徴である(タランティーノのオタクっぽさにその源を求めるのはうがちすぎか)。言うまでもないが、タランティーノ本人にはこの批判は有効ではない。彼はそれをうまく処理する術を知っている。だが、その“一派”についてはどうだろうか。
タランティーノと『フェティッシュ』の監督レブ・ブラドックとのあいだに直接的な影響関係はない。タランティーノが映画を気に入って、自分からプロデュースを買ってでたというだけだ。だが、そこに働いている病理は、タランティーノ映画と同じであるように思える。
『フェティッシュ』の主人公は人の死にとりつかれた娘である。エスメラルダは人間が死ぬのがどういうことなのかを知りたくてたまらず、しまいに殺人現場の清掃をする会社に就職する。そうすれば殺人に近づけるからだ。やがて念願かない、ヒロインは連続殺人鬼の現場を掃除することになる。本当の殺人って、どんなものなのだろう? ところが、そこに残っていた証拠を消そうと殺人鬼本人があらわれ、二人は鉢合わせ。
となれば当然、想像上の殺人と現実の殺人鬼とが葛藤することになる。ところがどっこい、奇妙なことにこの映画はそうはならない。ヒロインは想像上の殺人と、現実のそれとを区別できないのだ。どうも区別する必要があるとすら思っていないようである。それゆえ、映画はどうにも座りの悪い結末を迎える。
これは間違いなく監督の資質だろう。ブラドック自身が、二つの区別をできないでいるのだ。だから自然結末は曖昧にならざるを得ない。ヒロインは現実の殺人鬼に直面したとき、何を感じるだろうか? それに対して監督は明快な答えを出さない。ヒロインの勘違いを指摘できないのだ。ある意味では、それも誠実な態度なのかもしれない。だが、映画作家としては完全に失敗である。映画の中の死は、現実の死とは違うものなのだから。
back to INDEX Esq INDEX
Kiichiro Yanashita / 柳下毅一郎 / yanasita@gol.com