『ジャイアント・ピーチ』
(初出『エスクワイア』97年2月号)
「無声映画を経験した映画作家以外には、真に視覚的な映画表現はできない」と言った映画評論家がいる。別に反論する気はないが、ぼくとしてはこれに「それと、アニメーションを経験した映画作家も」と一言つけ加えておきたい。たとえば、今の日本でもっとも視覚的な映画表現を見せてくれる映画監督は? もちろん宮崎駿だ。宮崎駿の映画には、必ず純粋に映像だけで物語を語る瞬間が存在する。画面の快感、純粋な動きのみが支配する。当然ではないか。アニメーション作家だけが、自分一人で画面を完全にコントロールする術を知っているのだから。実際、視覚的想像力を持ちあわせぬ者が、優れたアニメーションを作れるわけがない。そんなのは、ペンも握れないのに漫画を描こうとするようなものだろう。
映画が純粋に視覚体験なら(これには若干の疑いがあるが、それでも)それはアニメーションに求めるしかないだろう。視覚のエクスタシーとは何か? それをはっきり教えてくれるのがヘンリー・セリックだ。
ディズニーのアニメーター出身であるセレックは、処女長編『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』によってその名を天下に知らしめた。ただし、この成功には一点の陰があった。『ナイトメア〜』が同じくアニメーション出身の幻視者ティム・バートンの創造物であることは、誰の目にも明らかだったからだ。まがまがしくも美しい造形、生き生きとした人形の動きのどこまでがセリックのイマジネーションなのか、それはバートンとセリックにしかわからないことだ(ひょっとしたら二人にもわからないかもしれないが)。彼が第二作『ジャイアント・ピーチ』を作るまでは。
『ジャイアント・ピーチ』はロアルド・ダールの童話を原作にしている。鬼婆のような叔母さんに奴隷のごとくこき使われているジェームズ坊やはある日庭になっている桃の実が巨大化していることに気づく。同じく人間ほどのサイズにまで巨大化した昆虫たちとともに、夢の都ニューヨークへと旅立つのだ。
冒頭、人間の俳優たちが演じる実写部分にはほとんど魅力がない。撮影がひどく平坦で、これはアニメの悪影響である。ではやはりダメなのか、そう思った瞬間に昆虫たちがストップ・モーションで動きはじめる。魔法のはじまる瞬間だ。
「まるで生きているかのように」というのは常套句だが、セリックのアニメ人形は生き物のようには動かない。蜘蛛も、バッタも、ムカデも、どれも実際の生き物とはまるで違っている。みな昆虫でも人間でもなく、アニメでしかありえないように動くのである。驚くほどになまめかしい女郎蜘蛛の優美な姿に心が騒ぐのは、それが生き物のようだからではない。セリックのアニメは純粋に視覚の愉しみだ。ただ見ているだけで(あらゆる言語による理屈づけを越えて)、途方もない恍惚を与えてくれるものなのである。
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Kiichiro Yanashita / 柳下毅一郎 / yanasita@gol.com