『トレインスポッティング』
(初出『エスクワイア』97年1月号)
ドラッグは退屈な子供たちのためのものだ。大人はドラッグをやらない。なぜなら、大人というのは退屈と折り合うすべを見つけた(あるいは自分が退屈していることすら忘れてしまった)人間だからだ。ドラッグをやるのは世界の退屈に耐えられない人間である。
で、若いうちは例外なしに世界は退屈だ。世界はつまらない、なんせ何ひとつ自分の思い通りになることがない。力はない。頭は悪い。金もなければガールフレンドもいない。野放図な望みと、それがかなわぬ挫折感ばかりを味わっているのが若さというものである。望みがかなわないときには、人間当然ながら失望し、退屈する。そこでドラッグが登場する。ドラッグを使えば退屈な現実を忘れ、よりましな、もうちょっぴり楽しい世界体験を味わえるからである。
したがってドラッグ映画は必ず優れて青春映画である。『モア』、『ドラッグストア・カウボーイ』、『デイズド&コンフューズド』といったタイトルがすぐに頭に浮かぶ。時代や場所が変わっても、若者はつねにドラッグに溺れつづけるのだ。『トレインスポッティング』の場合、時代は現在、場所はスコットランドのエディンバラ、そしてドラッグはヘロインである。
登場するのはロクデナシの若者たち五人組。頭だって切れるし、体が悪いわけでもない。それでも仕事もないし、将来の望みもない。それがエディンバラの若者である。やることと言えばナンパと喧嘩、それにドラッグだ。主人公レントンは重度のヘロイン中毒である。“一発”の注射を手に入れるためならなんでもする(ジャンキーに仁義はない)。盗み、たかり、かっぱらいなんでもござれ、「スコットランド一汚いトイレ」に顔を突っ込むことさえ厭わない。ときに自己嫌悪を駆られ、必死でヤクを抜こうとする。だけど、静脈にぶち込む一本の注射、その沈みこむようなエクスタシーは何物にも変えがたいのだ。
ドラッグの幻想を画面に表現しようとすると、どうしても陳腐なものにならざるを得ない。せいぜいが“気分”を伝えるくらいだろう。『トレインスポッティング』が伝えてくるのはヘロインの恍惚(その無気力感)、その汚濁(最低の人間に堕ちるというのはどういうものか)、それに、突き抜けた先にある明るさである。
レントンたちジャンキー連中はまちがいなく最低の生き物である。にもかかわらず彼らは魅力的であり、映画は奇妙な明るさをたたえている。それは絶望の先、どん底の先、そのすべてを通り抜けた先にある明るさだ。レントンは禁断症状[コールド・ターキー]の苦しみの中で、ここと違うどこかの世界に通じる扉を見いだしたのだ。八十年代でもっとも優れた青春映画『レポマン』の最後に、主人公は放射能を浴びて血へどを吐きながら幻想のUFOで空に旅立つ。ちょうど「スコットランド一汚いトイレ」の中には清浄の世界が広がっていたように。
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Kiichiro Yanashita / 柳下毅一郎 / yanasita@gol.com