(初出『エスクァイア』2003年4月号)
そのポランスキーは自伝にみずからの血まみれ人生のすべてを綴っている。これはきわめて興味深い本だ。センセーショナルだからではない。その逆で、異常なまでに淡々とした語り口が印象深いのだ。次から次へとふりかかる事件を、乾いたユーモアを交えながら語ってゆく。なぜここまで語れるのだろうか、とさえ思われるほど率直に。まるで他人事のように、と言ってもいいかもしれない。ポランスキーには当事者ならではのてらいも逡巡もない。自分の人生に他人の出来事を見ているかのような醒めた視線を向ける。ポランスキーは徹底して傍観者なのだ。そもそものはじまり、第二次世界大戦のときから。
『戦場のピアニスト』で、ポランスキーはこれまでかたくなに避けてきたナチス時代を扱った。原作はポーランドの国民的作曲家ウワディスワフ・シュピルマンである。ユダヤ人であるシュピルマンはドイツ占領下のワルシャワを奇跡的に生き延びた。家族は全員収容所送りになったが、シュピルマン一人は助けられ、ゲットーで労働奉仕に従事する。やがて友人の手を借りて脱出し、アパートの一室でひっそりと暮らしながら町を襲う悲劇を目撃する。やがて食べ物もなくなり、飢えに苦しみながら、シュピルマンは廃墟と化した無人の町をさまよう。
映画は徹底的にシュピルマンの一人称で語られる。シュピルマンを助け、あるいは貶める人々も、彼の目の前にいるときしか存在しないかのようだ(家族がどうなったのかさえ語られないのである)。すべてが一期一会の出会いであり、誰も深い関係を結ぶことなく、シュピルマンの前を通り過ぎてゆく。もっともドラマチックな−−ハリウッド的な−−関係となる友人の妹にしても、その出会いと別れはきわめてあっさりとしたものである。
同時に、シュピルマンは歴史に対しても傍観者でありつづける。シュピルマンは隠れているアパートからワルシャワ・ゲットー蜂起やワルシャワ蜂起を目撃するのだが、すべては窓の外で起きる事件としてである。昨日まで一緒に煉瓦を運んでいた仲間たちがわずかな拳銃だけでドイツ軍と戦い、敗北して死んでいくのを、シュピルマンは窓からただ眺めている。窓の向こうで起きていることと自分のあいだには超えがたい壁があるのだ。この歴史的カタストロフのただ中にあって、シュピルマンの世界は小さなアパートの一室にほぼ限定されている。シュピルマンにとって、歴史も他人もただ自分の外を流れてゆくものなのだ。シュピルマンは死体の転がる廃墟の中にたった一人で立ちつくす。
ポランスキーもまた、世界に受け入れてもらえない存在だった(彼がなぜそうなったのか、という点はとりあえずはどうでもいい)。ポランスキーの自伝がそうであるように、この映画も傍観者の諦念に満ちている。それは決して触れ得ぬ世界への深い哀悼の念だ。これまでどうしても自分自身の歴史に近づけなかったポランスキーは、シュピルマンの原作にはじめて自分と同じ世界観を見出したのだ。