(初出『エスクァイア』2001年8月号)
アクション映画とは、何よりも俳優がアクションによって感情を表現する映画である。ミュージカル映画で登場人物の感情が歌と踊りによって表現されるように、アクション映画ではキャラクターの感情は、台詞でも演技でもなく、あくまでも行動によって表現される。映画のすべてはアクションを中心に組み立てられる。残念ながら、爆発映画にはそんな構成は望むべくもない。かつては何も考えなくても実現されていたことだが、その根拠が失われた今となっては、アクション映画は充分に芸術的営為なのである。
『忘れられぬ人々』は三人の老人が主人公である。性格もやっていることも、ほとんど共通点のない三人だが、第二次大戦の戦友として決して切れない絆に結ばれた親友同士である。一人は夫婦でささやかな居酒屋を切り盛りし、お調子者の老人はバスの中で出会った老婦人のナンパに精を出し、終戦後荒れた生活を送っていた者も今では落ち着いて畑を耕す日々だ。それぞれに落ち着いて暮らしていたはずの三人だが、看護婦をしている戦死した戦友の孫娘と出会ったことから、驚くべき事件に巻き込まれることになる。
一見したところ、これほどアクションからほど遠い映画はない。主役はみな老人なのだし、演じる俳優たちも若いころにもアクション・スターと呼ばれてはいない人ばかりである。もちろん走りもせず、崖から飛び降りることもなく、火柱をかいくぐったりもしない。淡々とした描写で物語は進んでゆく。
だが、それでもなお、これははっきりアクション映画だと言える。何よりも、映画自体の構造がアクションを中心に組み立てられているからである。
たとえば西部劇がなぜ誰にとってもわかりやすい活劇なのかを考えてみるといい。それは何よりも決闘があるからである。西部劇では、すべての葛藤が最後の決闘によって解決される。逆に言えばドラマは一対一の決闘に収斂しなければならない。最後の対決から逆算するかたちで物語が組み立てられ、シンプルで力強い構成が生まれるのだ。それがわかっていなければ、いくら西部を舞台にしようと、クライマックスも何もないままひたすらダラダラと続くだけの映画ができあがってしまう。
では『忘れられぬ人々』はどうなのか。老人の一人、木島(三橋達也)は南方の戦場で死にそこなった男である。復員後ヤクザまがいの暮らしをしていたのも、戦場での経験に折り合いをつけられなかったためらしいと示される。木島を夜ごと襲うのは戦場の夢だ。負傷した戦友にとどめを差してくれと頼まれながら、それに応えられなかった。痛みは決して消えることがない。おそらくはふたたび戦場におもむく日まで。
そして当然のごとく、物語のクライマックスでは彼らはふたたび死地を求めて戦いに向かうだろう。すべてはただ一瞬のガンファイトのためにあるのだ。かつてペキンパーは老人ガンマンたちの最後の戦いをこのうえなく崇高に描いたが、『忘れられぬ人々』の銃声すらしない決闘もそれと同じほどに鮮烈だ。たとえ銃弾がスローモーションで飛び交わなくとも、物語の中できちんと意味づけられ、キャラクターの感情を託した戦いであれば、いくらでも感動的なものとなる。それを理解しているからこそ、『忘れられぬ人々』はもっとも現代的な西部劇となりえたのだ。