『15ミニッツ』

(初出『エスクァイア』2001年7月号)


 アンディ・ウォーホルの「未来には誰でも十五分間は有名になれる」ほど、よく使われる警句もないだろう。ウォーホルがコピーライティングの天才だったという証拠である。ウォーホルはメディアと人間の欲望について知り尽くしていた(それがつまり、コピーライティングの天才だったということだ)。実際、これほどうまくメディア社会におけるリアリティを表現した言葉はない。ウォーホルの未来はまたたく間に現在に呑みこまれ、そのまま現代社会批評のコピーになった。そのままで映画のタイトルにできるほどに。

『15ミニッツ』の主役となるのは東欧から来た二人組の殺人狂ギャングである。分け前を持って逃げた相棒を追い、チェコ人とロシア人の二人組ギャングはニューヨークへやってくる。彼らの殺人を追うのはテレビカメラを従えて犯人を逮捕するテレビ時代のスーパー刑事と若い放火捜査官である。無法のかぎりをつくすギャングたちは、やがて彼らなりの「十五分間」を手に入れようと考えはじめる。

 この映画には数々の欠点がある。とりわけ脚本の行き当たりばったりさは目も覆わんばかりだ。二人組はまったく無計画に暴力をふるっているし(事件の目撃者を見つけるために人を殺すくせに、肝心の目撃者は脅すだけで放免してしまう)、スーパー刑事に人間的弱さを持たせるはずの伏線も、思いつきだけでまったくフォローされないままだ。ストレートな刑事ドラマを求める人は、大きすぎる穴に呆れるだけだろう。いや、この映画の奇妙な魅力はそんなところにはない。

 ギャングの片割れはなぜか映画マニアであり、フランク・キャプラの『素晴らしき哉、人生!』を愛している。ホテルに泊まるときはキャプラの偽名を使い、何かといってはあれこそが至上のアメリカ映画なのだと力説する。『素晴らしき哉、人生!』は一人の人間が、自分だけの力でどこまで世界を変えられるかを描いた映画である。ギャングたちはそれにならってアメリカン・ドリームを実現しようとする。ビデオカメラを盗みだした二人組は自分たちの殺人をビデオにおさめ、センセーションを売り物にしているテレビ局に売り込む。

 もともとスーパー刑事の逮捕劇をセンセーショナルに報じることで人気を得てきたニュース・ショーは、すぐに殺人犯の思惑に食いつく。テレビ番組のモデルは映画『インサイダー』の舞台にもなったCBSの人気ニュース番組『60ミニッツ』だろう(タイトルはふたつの掛け合わせだ)。周囲はいきりたつが、殺人鬼たちは当然のこととうそぶく。彼らが作っているのは「セックス&ヴァイオレンス、本当のアメリカ映画」なのだから。

 アメリカの成功神話はグロテスクに再演される。東欧から富を求めてやってきた男たちが、セックスとヴァイオレンスに満ちたアメリカ映画を作ることで、暴力によってアメリカン・ドリームを実現する。当然、映画のラスト・カットはリバティー島に立つ自由の女神像になるだろう。一方で目撃者となる東欧移民の女性は二人の陰画となるべき存在である。母国でレイプ犯を正当防衛で殺したために殺人犯として追われているのだ。アメリカでなら英雄になれるのに、と賞賛されるのだ。

 監督・脚本のジョン・ハーツフェルドが本気であることに疑いの余地はない。すべてのメッセージが本気だ。だが、つねに矛盾は残る。ハーツフェルドは殺人すらを食い物にするメディアの貪欲さを指弾するが、実際に彼が作っているのは残虐な殺人場面を売り物にした刑事アクションなのである。ハリウッドで映画を作ろうとするなら、どうしてもこの矛盾から逃れることはできない。

 おそらくは幸いなことに『15ミニッツ』はアクション映画としてはあまりにもバランスを失している。物語にリアリティはないかもしれない。だが、これはアクション映画として見るべきではないのである。あくまでもおとぎ話、ハーツフェルドが語り聞かせるありえざる寓話なのだ。


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Kiichiro Yanashita / 柳下毅一郎 / kiichiro.yanashita@nifty.com