(初出『エスクァイア』2001年4月号)
『リング』の大ヒットは日本における恐怖の顔を書きかえた。ただホラー映画が金になるジャンルとして再認識されただけではない。貞子がテレビの画面から外に這いずってきたときに、映画作家は新たな恐怖表現を発見した。ショックで脅かすのでも、シチュエーションで怖がらすのでもなく、グロテスクな存在をそのまま映像にして観客を怖がらせる。陳腐なお笑いにしかならなかったはずの手法が思いがけず甦ったのだ。以来、中田秀夫、鶴田法男、清水祟(『呪怨』)、脚本家の高橋洋らは競いあって新しい恐怖表現を追求してきた。欧米のホラー・トレンドとはまったく無関係なところで、日本映画の恐怖表現は先鋭的に尖ってきたのである。
かつて『CURE』で和製サイコ・ホラーのブームを作った黒沢清も『回路』でおぞましさの極限を追及する。開かずの間の中で迫ってくる幽霊の描写はこれまでになく、そして過去の恐怖表現を踏まえてグロテスクきわまりない。観客を怖がらすことに関しては一頭地を抜いた映画である。だが、ホラー表現が飛び抜けたものであればあるほど、それは物語から突出する。物語と無関係に成立してしまうのである。先鋭化したホラー描写で観客を引きつける『回路』は、実際には恐怖以外の場所へと観客を連れていく。
幽霊を見た人は自分のどうしようもない孤独を教えられ、存在の基盤を失ってしまう。存在する意味がなくなれば消えるしかない。だが、それは別に幽霊がいなくとも、同じことなのかもしれない。劇中、一人の男がぽろりという言葉がある。「人と人とは決してわかりあえはしない。余計なちょっかいなんて無駄なことだよ。ぼくなら何もしないね」幽霊はただ、その真実をあらわにするための装置にすぎない。人は根本的に触れあうことなどできないものなのであり、それを認めた人間は(比喩的に)消え去るしかないのだ。
本当にそうなのだろうか? そこで黒沢清は問いかける。たとえ人間は宇宙になんの痕跡も残さず消え去るしかない定めだったとしても、その運命に唯々諾々としたがうことが生きることなのだろうか? 黒沢清が『ニンゲン合格』で、『カリスマ』で、問いかけたテーマがまたここで繰りかえさせる。たとえ世界で最後の人間になろうとも、前に進みつづけなければいけない。その意志こそが、人を人たらしめるものなのである。それを思えば、進みつづける人の象徴として役所広司が特別出演する理由もわかるだろう。彼こそは『カリスマ』で進むべき道を見いだした人なのである。