『白い花びら』

(初出『エスクァイア』2000年7月号)


 二十世紀の終わりに映画を作るのは、すでにして倒錯的な行為である。ましてやヨーロッパの辺境、フィンランドで映画を作りつづけるとなればなおさらだ。自分で映画を作り、自分で配給し、自分で上映する。自分がいなければ映画そのものが存在しないという立場に立たされれば、映画作りそのものに意識的になるのは当然だろう。アキ・カウリスマキは映画を作るために、映画のシステムすべてを発明しなければならなかったのだ。

 カウリスマキの新作は“二十世紀最後のサイレント映画”と称されている。かつての無声映画のスタイルを模して、会話はなく、セリフはすべてインタータイトル(字幕)で処理される。公開されるのは音楽伴奏付きのサウンド版だが、ベルリン映画祭でのプレミアではバンドの生演奏という無声映画スタイルで上映された。半世紀以上前に滅びた映画形式を、技術的制約がない今わざわざ甦らせる(バーでの演奏シーンからわかるように、実際には映画は同録で撮られている)。これを倒錯と言わずしてなんと言おう。

 ある種の映画作家、極端なフォルマリストは形式的完成を目指して映画を作る。たとえばロベール・ブレッソンの映画では、俳優の演技も音楽も挾雑物として斥けられる。映画が映像の芸術だとすれば、サイレント映画こそがもっとも純粋な映画だろう。だが、それは正確な意味では倒錯であるまい。カウリスマキの倒錯は無声映画そのものが目標となっているところにある。映画の中で、俳優たちはわざと「サイレント映画らしい」大げさな演技をつけてみせる。カウリスマキはただ音のない映画を作ろうとしているのではなく、意識して無声映画のまがい物を作るのだ。

 映画とは本来娯楽であり、興行である。その意味ではハリウッド産のマクドナルド的大量生産映画の方が、個人作家の芸術作品よりもはるかに映画の本質に近い。映画産業が崩壊した二十世紀末に映画を作ろうとするのは、その意味ですでに倒錯した行為なのである。そしてもともと映画産業のないところで映画を作るカウリスマキほど、それを強く意識している映画作家もいないだろう。カウリスマキはゼロから映画を創造した。過去のない世界でなら、どんな手法であろうと歴史的文脈から切りはなして自由勝手に使うことができるだろう。カウリスマキはただ手法として“サイレント映画”を使ってみせたのだ。

『白い花びら』は田舎の農夫夫婦と都会から来た流れ者の三人からなるシンプルなメロドラマである。年老いた農夫に飽き足らない若妻は洗練された遊び人の誘いに乗り、転落への道を歩むことになる。こんな簡素なメロドラマはサイレント映画でもなければ成立しえない。そうカウリスマキは考えた。現代ではありえない単純すぎるメロドラマにリアリティを持たせるため、サイレント映画の形式を借用したのである。喜びをあらわすために抱きあって踊るという記号のような演技を認められるなら、誘惑されるヒロインのナイーヴさもまた信じられるだろう。二十世紀の終わりにサイレント映画を作る倒錯はその手法に見合ったテーマを得て正当化されるのだ。


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Kiichiro Yanashita / 柳下毅一郎 / kiichiro.yanashita@nifty.com