『マグノリア』

(初出『エスクァイア』2000年4月号)


 弱冠二十七歳で作った監督第二作『ブギーナイツ』でアカデミー賞三部門ノミネートを勝ち取ったポール・トーマス・アンダーソンならば、天才少年の将来について思うところもあるだろう。天才少年が人生においても勝者となるとはかぎらない。それが『マグノリア』のメッセージである。いや、それを言うなら人生に勝てる者などいないのかもしれない。群像ドラマである『マグノリア』には人生の勝者は一人も出てこない。登場人物は見事なまでに負け犬ばかりである。かつてクイズの天才少年としてアメリカじゅうに名を馳せたドニー・スミス(ウィリアム・H・メイシー)は、今では家電量販店の広告塔としてほそぼそと生計をたてるのみだ。世渡り下手どころか仕事も追われ、借金まみれでかなわぬ恋に身を焦がしている。癌に冒されたクイズ番組の司会者は家を飛び出していった娘と和解を望んでいる。だがいきずりのセックスとドラッグに身を持ち崩した娘とのあいだには共通の言葉すら存在しない。彼女に純情を捧げるダメ警官も、その逆に「女などただ征服するための獲物だ」と言い放つスーパー・プレイボーイも、クイズで勝ちつづける現役の天才少年も、みながしくじる。誰一人として成功することはない。

 総勢十二人の主要登場人物を抱える『マグノリア』には、映画を引っ張ってゆく主人公は存在しない。そもそも状況を変える意志と能力を持つ者自体がいないのだ。全員が自分にはあらがいがたい何か巨大な力、運命の手の中にあって翻弄されてゆく。流れの中でいくらあがこうと、たった一人の力では何も変わらないだろう。アンダーソンはくりかえしくりかえし、このきわめて反アメリカ的な教えを説きつづける。すべてを諦めて、なすがままを認めぬかぎり、心の平安は訪れない。主題歌として使われるエイミー・マンの歌、有名なフレーズ「そういうものだ」が引用されるカート・ヴォネガット・ジュニアの小説もまた、ニヒリズムに堕さない諦念を訴えていた。アンダーソンの世界には勝者はいない。誰もがこっぴどく敗北する。ゼロからすべてが始まる……といったポジティヴな逃げ道すら残されていない。彼らを救ってくれるものがあるとすれば、空から飛んでくるスーパーマンか天の声くらいだろう。いずれにせよ、それは物語の当然の帰結ではない。

 そもそもここには映画を貫く物語自体が存在しないのだ。運命の道具である登場人物たちには物語を作りあげる能力などない。アンダーソンはハリウッドに蔓延する(ときにその外でも感染例がまま見られる)物語性の病に抗おうとする。『マグノリア』が見せるのは物語ではない。それはひとつの世界の断面図と言うべきだろう。アンダーソンは映画の中に生きる人々の姿を思いも寄らぬ切片に映しだす。実のところ、物語もまたひとつのフィクション、現実を解釈するための道具でしかない。脈絡なき混沌のつらなりである現実に意味を与えるため、人間が発明した方法論なのである。そう認めることができれば、そのときには世界に対する別な解釈もまた生まれうるはずである。ハリウッド的なドラマツルギーからすれば破格としかいいようがないアンダーソンの世界は、世界を見る新たな視線を与えてくれるのだ。


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Kiichiro Yanashita / 柳下毅一郎 / yanasita@gol.com