(初出『エスクァイア』2000年2月号)
『ファイト・クラブ』の語り部は自動車メーカーで事故調査の仕事をするヤッピー青年である。給料は良く、部屋にはブランド品を積みあげている。何不自由ない暮らしをしているはずの彼にはひとつだけ悩みがある。不眠症なのだ。どうしても眠れないでいる彼は、ひょんなことから末期患者のセラピー・グループに偽患者として潜りこむ。そこで心をしぼるような苦痛を盗み見たとき、はじめてぐっすり眠れるようになる。他人の痛みを借りてはじめて生が満たされるのだ。
主人公が最初に出かけるのは睾丸癌患者のセラピーである。そこに集まる男たちはみな、文字通りタマが抜かれている。そこにあるのは自分が男でなくなってしまった悲しみなのだ。その痛みを目のあたりにしたとき、主人公は不眠症の原因がなんであるかを知る。そう、彼もやはり自分の男性を失っていたのだ。もちろん癌にではない。彼はブランドまみれの現代生活に去勢されているのである。彼をそこから救い出すのはタイラー・ダーデン(ブラッド・ピット)という名前の悪魔だ。
『ファイト・クラブ』は去勢恐怖のかたまりのような映画だ。タイラーは何かと言えば「金玉を切ってやろうか?」と脅しをかける。それ以上恐ろしいことなどこの世には存在しない、と言わんばかりに。たぶん、そのとおりなのだ。金玉を失い、男でなくなるのは、死に等しい恐怖なのである。タイラーと主人公は生きるための手段を考えだす。それが“ファイト・クラブ”、男たちが裸で殴りあうクラブである。ブランド服を脱ぎ捨てて、殴り、殴られ、自分の体で痛みを感じたとき、はじめて男は生を感じる。
そういう結論に達したのは『ファイト・クラブ』だけではない。『クラッシュ』には生の実感を得るために衝突事故で死を弄ぶ人々が登場した。塚本晋也の『東京FIST』は殴り殴られるボクシングの快感に目覚めるサラリーマンの姿を描く。無菌室に隔離された現代の生は緩慢な死なのだ、彼らはそう告発する。だが、その代わりに何がある? 直接的な暴力、流れる血の方がよりましだとでも言うのだろうか? この先に待っているのは『アメリカン・サイコ』の無差別殺戮だ。いずれにしても出口はない。『ファイト・クラブ』の男性性獲得の試みも、最後には無目的なテロリズムとして爆発する。世界は男のものかもしれない。だが、世界に雄の居所はないのだ。