(初出『エスクァイア』2000年1月号)
“サンダンス映画”という言葉がはたしてどのくらい人口に膾炙しているものかは知らないが、最近のアメリカは“サンダンス的”としか言いようのない映画にあふれかえっている。手早く特徴を挙げれば、それはまず群像劇である。そこには都会に生きる二十代もしくは三十代の男女が六人だか七人だか登場する。みなが等身大の悩みをかかえている。恋愛だったり、セックスだったり、就職だったり、自己実現だったり。六人だか七人だかはお互い同士でその悩みをぶつけあい、恋し、いさかい、和解する。最後には全員が一同に介するグランド・ホテル式の大邂逅があって、問題が解決する(あるいは解決しない)。
新人にいきなり『タイタニック』を撮らせるプロデューサーはいない。しかし、もはやロジャー・コーマン学校で低予算映画の作り方を学ぶこともできない。そういう状況下で生まれてきた答えが“サンダンス映画”なのだろう。現代劇ならばセット代もコスチューム代もかからない。ひねった脚本と気の利いたセリフさえあれば、プロデューサーを説得できるだろう。ハリウッド俳優たちにとっても、短期間で撮影が済む“サンダンス映画”はそう悪い選択ではない。たしかにスタジオの大作に出るほどの金は稼げないかもしれないが、洒落た演技を見せるチャンスもあるし、何よりインディペンデント映画の守護者を名乗ることができる。低予算で新人監督を発掘したいプロデューサーとも利害が一致する。オフビートなバンドを並べたサウンドトラックを売れば、元を取ることなどたやすかろう。
『二〇〇本のたばこ』がいかに“サンダンス的”フォーマットにのっとって作られ、そしてそこから一歩も出ていないかをくだくだしく述べる必要はないだろう。実際、先に挙げてみせた類型はほとんどそのままこの映画にあてはまる。たぶん“サンダンス映画”の最大の問題はそこにあるのだ。“サンダンス映画”では悩みも苦しみもすべてが小さい。小器用なテクニックはいくらもあるだろう。だが、そんなところに観客がいるだろうか。あるのはちっぽけな痛みを後生大事に抱えこむ監督の肥大した自意識だけなのだ。