さて今回は最終回にふさわしく最強のネタにして出版の可能性も大いにあるという強力作品を紹介したい。その名をハリー・スティーヴン・キーラー、史上最低のミステリ作家である。
キーラーは一八九〇年に生まれ、七七歳で死ぬまでに七〇冊以上の長編小説を残した(中短篇にいたっては数知れず)。だがその名はまったくミステリ史に残っていない。キーラーはなぜ「史上最低のミステリ作家」と呼ばれたのか。なぜなら、キーラーの小説は誰にも理解できなかったからである。キーラーは長大かつ冗長なミステリを書いた。登場人物には奇怪で発音もできない名前がついており(たとえばFoss EttenboroughやFawcette N. Broe)、彼らが常識では考えられない謎(たとえば取り違えられたかばんに入っていた髑髏の中に詰められていた詩の謎)を解き明かす。物語は物語を呼び、謎は謎を呼ぶ。キーラーは自分の小節をwebwork novel(網の目小説)と呼んでいた。本来全く無関係なはずのキャラクターと小道具が嘘のような偶然によって結びあわされるというものである。人々の軌跡がそこここで交差して網の目ができあがる。うまく行けば予想もつかない伏線に読者は驚愕するはずだ。だがキーラーの場合、キャラクターも事件も偶然もすべてあまりに嘘臭く、結果としてできあがる小説にはリアリティなどかけらもなかった。実際、キーラー本人にとっても物語そのものはどうでも良かったらしい。キーラーはますます奇抜な事件と奇怪なキャラクター造形にのめりこんでいく。妙な東洋趣味の持ち主だったキーラーは小説にかならず中国人または日本人を登場させ、サーカス芸人や身体障害者を引っぱり出すので物語の異様さはいや増した。
(いや、こう書いているとこの作家が今まで日本で知られていなかったことの方が不思議だ。だってこういう作家今の日本にいるじゃないか! 新本格系に……)
キーラーは(キーラーの頭の中にしか存在しないような)妙な外国訛りをそのまま表記することにこだわったので、物語はますます読みにくくなっていった。"The Mysterious Mr.I"は一人称の主人公が数十個のアイデンティティを使い分けるので、読者にすらその正体がわからない。キーラーはもはや誰にも理解できない世界に旅立とうとしていた。
さて、今回紹介したいのはそのキーラーの最高傑作と言われる『マルソー事件』である。 アンドレ・マルソーの奇怪な死はロンドン警視庁の歴史に残る伝説の未解決事件であった。一九三五年五月、マルソーは自宅裏のクローケー場で絞殺された。きれいに手入れされたクローケー場の芝生には犯人の足跡がはっきり残っていたが、それは子供のものだった。しかも足跡は芝生の真ん中ではじまり、真ん中で途切れていた。あたかも宙から忽然とあらわれた子供がマルソーを絞殺し、また宙に消えたかのように。
事件の目撃者はいなかったが、物音を聞いた物はいた。隣家の納屋に寝泊まりしていた盲のホームレスは事件の起きた時間にマルソー家のまわりを旋回するヘリコプターの爆音を聞いている。そしてマルソーが「悪魔の……赤ん坊が!」と絶叫するのを(ちなみにマルソーはつんぼだったのでヘリコプターが近づくのが聞こえなかったのである)。警察は同時刻に近くの飛行場からヘリコプターが盗まれたことを突き止めた。そして奇人マルソーは小人を嫌っており、新聞に「すべての小人を断種せよ」と投書していたこともあきらかになった。以上の事実を鑑みて、ロンドン警視庁はすべての小人の敵であるマルソーを消そうと考えた小人殺人鬼が赤ん坊に扮し、ヘリコプターを盗んで空からマルソーを襲ったのだと結論づけたのである。
それから一年。
翌年一一月、突如として新たな動きが起きた。ロンドン警視庁に勤務するインド出身のイグジニアス・ジョーンズ(Xenious Jonesという名前は当然Geniusとの駄洒落である)がマルソー事件の完全な解決を握っており、来年二月に明かすと発表したのだ。天才探偵ジョーンズは三次元に時間の要素を加えた四次元的推理で事件の真相を喝破したのだ。このニュースに世間は色めき立った。中でもニューヨークの通信社オール・アメリカン・ニュース・サービスはジョーンズの発表前に事件の真相を抜こうとアメリカ人探偵アレック・スナイドを雇って事件の調査をはじめさせたのだ。女たらし探偵スナイドは二月までにマルソー事件の真犯人を突き止めることができるのだろうか?
キーラーは本作を新聞や雑誌の記事、関係者同士の手紙、写真(!)や図版といった資料からなるモザイクとして書きあげた。舞台は当然のごとく中国や日本にまで飛ぶのである。キーラーとしてはさまざまな要素によって変化をつけたかったのだろうが、手紙も電信もすべてキーラーが書いており、キーラーには書き手によって文章を変えるような技術はない。したがってすべての手紙はまだるっこしく、不必要なディテールにこだわり、妙な感嘆符や訛りが乱舞する。ポーランドにあるという〈リリプット人協会〉(全世界の小人すべての動向を把握している協会)の事務局長からは「ではありますが、博士、本協会の方針として医療関係者からの問い合わせにはすべて完全に答える方針でありますので、数、日のうちに、イセンキントとレヴィンタールの手紙原本をファイルより探しだしてお送りいたします。つきましては、安全のためにこちらで写しを取りますが、ご都合のつくかぎり早急にご返送願います。今ただいまは関係ファイルはしまいこまれ、唯一の鍵は私の妻−−秘書−−が持っており、彼女はポーランドのSzczebryeszynへ出かけたまま今月八日まで戻らない予定です」などと妻の動向まで知らされてしまうのである。それにしてもこの地名、なんと読むのだろう?
さてスナイドはマルソー家で働いていたメイドが名を変えてスイスで老婦人の元で働いていることをつきとめて彼女と接触、マルソーが書いたという小説を入手する(とてもここには書ききれない事情により、メイドは自分の兄がマルソーを脅迫しているものと考えており、その証拠を抹殺しようとしていた)。原稿の表紙に、マルソーは「私が変死した場合、その犯人の名前はこの原稿の一〇六行目に書きこまれている」と書いていた。すなわち。
"Blimey, 'Erb! Little?" Lu Caslow's dreary eyes
ここからLittle Lucasという名前を読みとったスナイドはその芸名を持つ小人のジャグラーの存在を突き止める。だが、Little Lucasはマルソー事件の前に火事で焼死していた。つまり完璧なアリバイがあるということだ! 怪しいと睨んだスナイドはリトル・ルーカスことガイ・エゼキアの行方を追う。捜索はエジプトから小人ミイラを輸入する業者からニュージーランドの謎のカルト(霊魂は当人の所有物に宿ると考え、死後もその人の持ち物をすべて保存する)へと及び、ついには八丈島の地震で全滅した日本人綱渡り芸人一家までが登場する。はたしてスナイドは女遊びの合間に(文中にはスナイドがこました女の写真が挟み込まれている)エゼキアを捕まえることができるのか!?
ところでイグジニアス・ジョーンズの四次元推理は? それは実は続巻『スコットランド・ヤードのX・ジョーンズ』まで出てこないのだった。騙されたと怒ってはいけない。これこそがキーラーにとっては事件の真相などどうでもいいのだという証明なのである。