『ヤヌスの門』イアン・ブレイディ
"The Gates of Janus :Serial Killing and its Analysis" Ian Brady

ダミー表紙デザイン:高橋ヨシキ


 イアン・ブレイディは英国では知らぬ者なき有名人である。英国史上二番目に悪名高き殺人者だ(この上にはジャック・ザ・リッパーしかいない)。ブレイディの犠牲者は少年少女ばかりだった。十歳の少女を裸にして写真を撮り、いたぶる様子をテープに録音した。子供殺しは犯罪者にさえ嫌われるという。子供殺しは、刑務所の中ですら、もっとも卑劣で残酷な犯罪だと蔑まれるのである。

 ブレイディは一九三八年、スコットランドのグラスゴウに生まれた。幼いころから利発だが孤独な子供だった。学校を出たあとは半端仕事をしていたが、たびたび窃盗で逮捕され、つまらぬ罪でストレンジウェイ刑務所へ送られる。罪に見合わぬ罰を受けた、と感じたブレイディは社会への復讐心を燃やすことになる。出所後、母親の住むマンチェスターで小さな薬品会社の事務員として働く。孤独なブレイディはナチスの熱烈な愛好家となっており、ヒトラーの『我が闘争』を読んでいた。一九六一年一月、そこでタイピストのアルバイトをすることになったのがマイラ・ヒンドレーだった。ヒンドレーはすぐにブレイディに首ったけになった。ブレイディはたちまちマイラを洗脳した。神など存在せず、道徳など社会的構築物でしかなく、現実にあるのは肉体の快楽だけ。したがって自分の快楽のために他人を苦しめるのは自分の自由なのだ、と。

 この哲学にのっとって、ブレイディとヒンドレーは五人の少年少女を殺した。ほとんど理由もなく、ただ殺人のための殺人、自分に人が殺せると証明するためだけにおかした殺人だった。死体はマンチェスター郊外のサドルワース沼地へ運んで捨てた。このためブレイディ/ヒンドレーは沼地殺人犯[ムアーズ・マーダラーズ]とも呼ばれる。ザ・スミスの『サファー・リトル・チルドレン』はこの殺人事件についての歌である。そう言えばスミスには『ストレンジウェイズ・ヒア・ウィ・カム』なんて曲もあった。一九六五年一〇月、二人は共犯者の通報によって逮捕される。二人はそろって終身刑を宣告された(英国には死刑はない)。

 無事社会から隔離されたブレイディだが、もちろんそれでは話は終わらない。もともとブレイディの殺人は神への挑戦であり、自分の存在証明とも言うべきものだった。ブレイディがサディストだったのは疑いないが、彼はサディストの性癖を満たす以上に、自分が他人の作ったモラルに縛られず、殺人をおかせる人間だということを示したかった。ニーチェの超人であることを証明するための殺人だったのだ。そこまで自己主張したかった彼が、刑務所の中で人から忘れられたままおとなしく朽ちていくはずがない。とは言っても刑務所の中では洗脳できる相手も、犠牲者にできる年少者もいない。それでも自分の優越性を証明したければ? 本を書くしかないではないか。

 したがってブレイディは『ヤヌスの門』を書いた。これは連続殺人鬼が書いた連続殺人鬼についての本である。本は大きく二部にわかれ、第一部ではブレイディの哲学が諄々と語られる。だが、本当に興味深いのは第二部の方だろう。ここではヘンリー・ルーカスからヒルサイド・ストラングラー(ケネス・ビアンキとアンジェロ・ブオノ)まで十一件の連続殺人鬼がとりあげられ、その犯行が分析されている。いわば連続殺人鬼が連続殺人鬼をプロファイリングするわけで、まさにリアル・レクター博士である。ブレイディとしては、世間からは同列に見られている殺人者たちを分析してみせることで、自分は一枚上手の存在なのだということを示せると考えたのだろう。さらに捜査機関から特別な情報を得ていると述べ、自分の重要性を誇示してみせる。

 ブレイディは当初この本を自分の名前で出すつもりはなかった。「有名な連続殺人者」とだけ明かして仮名を使うつもりだったのだが、編集者が「それでは誰も読まない」と説得して本名を使わせたのだという。したがってこの本では(誰もがいちばん興味を持つはずの)ブレイディ本人の犯行については触れられていない。だが、状況が異なっていたとしても、彼が自分の犯行のことを正直に書いたかどうかは疑わしい。ブレイディのプライドは、刑務所から一生出られない今もなお、天よりも高いからだ。

 だが、やはり本を読んでいて面白いのはブレイディ本人との関連である。たとえば

「(殺人にまつわる)幻想と実行の両方を味わった立場として、幻想ははるかに快楽面で優越しており、その創造者に全能感という利点を与えてくれる、とはっきり言明できる。妨害や捕縛を恐れることなく、行為ははるかに濃密かつ円熟したものとなる。

 同時に経験に基づき、多くの人が信じているのと異なり、犯罪は多くは退屈な反復、神経にさわりアンチクライマックスな重作業だと断言できる。ペギー・リーの歌詞にあるように、徐々にエスカレートする犯罪をひとつ完成させるたびごとに、犯罪者は精神的に自問している自分に気づく。「これ以上のものはないのか?」反復する空虚さはニヒリズム症候群を加速させる。知識、生命、力あるいは究極の感情を開ける空想の鍵は決して満たされぬことなき中毒となる」

 なんともまだるっこしい悪文である。知性を誇示したくて漢字を多用してみました、と言わんばかり。この鬱陶しい文章でブレイディが訴えているのは煎じ詰めればこういうことである。社会(とそこに適応した“普通人”)は偽善的である。連続殺人者は社会において特別な存在ではなく、社会的に許容されたサイコパスも存在する。トルストイからミルトンから『孫子の兵法』まで散りばめた引用も知性のひけらかしである。

 プロファイリングをする第二部の中では、ピーター・サトクリフとグレアム・ヤングという二人の英国人殺人鬼について書いたものが圧倒的に面白い。嘘かまことか、ブレイディは二人に会ったと書いている。毒殺魔ヤングについては

「しつこくて興奮しやすいチェス好きだったが、ナチ親衛隊になぞらえる可能性を持つからと愚かしくもいつも黒を持ちたがった。何年にもわたって彼の日々の相手は本書の著者その人であったが、彼に対してはヤングはいつも勝ち損ねるのである」

 要するに自分の方が頭がいいと言いたいのだろうが、同じナチ・マニア同士、もう少し仲良くすればいいものを。この文章を信じるならばヤングとブレイディは同じ刑務所にいたようである。英国では凶悪殺人犯がひとつの刑務所に集められるのだろうか。それこそリアル・アーカム・アサイラム(『バットマン』の悪役が全員集められている精神病院)ではないか!


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