『ケルベロス第五の首』ジーン・ウルフ
"Fifth Head of Cerberus" Gene Wolfe

ダミー表紙デザイン:高橋ヨシキ


 ジーン・ウルフの名前が限られたSFファンにしか知られていないのは大いなる損失である。もちろんウルフはSF作家でありSF作家として評価されるべきなのだが、だがSF読者の中だけではその評価はもてあましてしまうはずだ。現に現代ファンタジイにおけるもっとも重要な作家の筆頭に挙がる存在でありながら、ウルフはほとんど紹介されていない。長編の翻訳は80年代のSF界を席巻した〈新しい太陽の書〉四部作だけであり、それもとっくに絶版。あとは短編の紹介が両手で数えられるほどだ。アメリカとの評価のギャップがこれほどある作家も珍しい。

 70年代からすでに高い評価を得ていながら、なぜウルフは紹介されないままだったのか。理由は簡単だ。あまりにも難解だったからである。

 ウルフは一文一語をもゆるがせにしない作家である。すべての言葉に意味を持たせ、言い回しの違いを伏線にできる。文章などめったに問題にならないSF界ではウルフのような存在は珍しい。ウルフはSF界いちの名文家である。翻訳家が二の足を踏んだのも当然だろう。手間ばかりかかるし、そもそもニュアンスを含めて意味を完全に取らないと翻訳に取りかかることすらできないのだ。

 さて、そのウルフのSF作品中でもっとも有名であり、彼の最高傑作ともされるのが『ケルベロス第五の首』である。

 舞台は遠い未来、宇宙の果ての辺境、サンテ・クロアとサンテ・アンという双子惑星である。人類が移民してわずか百年ほどしかたっていない新しい星なのだが、すべてがありえざる古色をまとっている。二つの惑星のひとつ、サンテ・アンには原住異生物が住んでいた。彼らは自在に姿を変えられるシェイプチェンジャーなのだが、初期のフランス人移民たちによって狩りつくされ、絶滅したという。だが、もうひとつ伝説があった。異生物たちは地上に降りたった人間たちの力強さに魅せられ、その姿を真似るようになった。やがて自分たちの出自を忘れてしまい、人間の記憶と伝承を身にまとって生きるようになった。つまりサンテ・アンの人間とは実際には人間そっくりの異生物なのである。

 ここまでが基本設定。『ケルベロス第五の首』はこの設定に基づく中編三篇で構成されている。それぞれが独立した中編なのだが(実際に最初の一篇「ケルベロス第五の首」は単独中編として発表された)、相互に絡みあって互いに互いのサブテキストとなる複雑な構成を持っている。第一篇はサンテ・クロアの名士の館に生まれた少年の物語。少年は兄弟とともに、車椅子の家庭教師から徹底した教育を受け、書物と館より外の世界のことは何ひとつ知らないまま育っていく。だが、やがて父親から夜な夜な「実験」と称する虐待を受けるようになる。注射をうたれて尋問されるうち、記憶がおかしくなり数日、ときには数週間も意識が飛んでしまう。少年はついに父親の殺害を決意するのである。

 第二篇は地球から訪れた人類学者ジョン・マーシュ博士が採集したサンテ・アン原住民の民話である。丘陵地帯に住む少年“砂歩き”には幼いころに沼人たちによって奪われた双子の兄弟“東風”がいる。“砂歩き”が夜眠りにつくと“東風”の夢を見る。夢によって自分の一族が“東風”たち沼人に襲われ、連れ去られたことを知った“砂歩き”は救出に向かう。途中で“砂歩き”は矮人たち“影の子”と出会う“影の子”の“老賢者”から聞かされた話は驚くべきものであった。すなわち“影の子”たちはかつて星をわたる種族であり、星船によってこの星を訪れた。“砂歩き”の一族はその力強さに魅了され、その姿を真似るようになったのだ。やがて“砂歩き”たちはかつて自分たちが動物だったことを忘れ、“影の子”たちは自分たちが人間であったことを忘れてしまったのだという。

 第三編はカフカ的な不条理のままに逮捕され、自分がなんの罪に問われているのかもわからないままに尋問を受けつづける囚人の物語である。係官が読む尋問記録、一件書類、囚人が書き殴ったメモから事件の全貌が徐々に明らかになる。サンテ・クロアで逮捕された男は地球人の人類学者であり、失われたサンテ・アン原住民の痕跡を求めるフィールドワークで双子惑星を訪れたのだ……

 登場人物によってつながりあっている三つの話はテーマによっても平行している。この三つの話はいずれもアイデンティティの探求譚なのである。第一話の主人公は成長過程で自分の周囲のものごとに隠されていた秘密を知り、ついに自分の誕生の秘密に至る。そのあいだに、彼の前にはさまざまな自分のヴァリエーションがあらわれる。彼が父親を殺そうと決意するのは、記憶と意識を奪われて、自分が自分でなくなってしまうという恐怖からなのである。一卵性双生児だった“砂歩き”と“東風”は同じ顔をしている。夢で意識がつながりあっている二人にとっては自他の区別はない。そして第三話の囚人は自分が告発されているのは自分殺しの罪によってであることを知らねばならない。これはポー的な自分殺しの悪夢のヴァリエーションなのだ。

 三つの話はそれぞれ異なった形式で書かれている。第一話は一人称の主人公の語りであり、第二話は民話として、そして第三話は日記や尋問記録などの断片として。だが、ウルフの散文の魅力がもっともよく味わえるのはそうしたテクニックではない。ウルフの最大の魔法は、語られていることと起きていることが違う状況を文章力だけで表現してしまうところにある。一人称の主人公はもちろん自分の信じていることを語る。だが、その語りの中からもうひとつの真実が浮かび上がってくる。ふたつの事実のはざまに魔法が生まれるのだ。魔法は第一話で子供の目で見た世界が徐々に開け、その複雑さがあらわになる瞬間。あるいは第二話において“砂歩き”にとっては夢と自分が見た世界と“影の子”からテレパシーで伝えられるもののあいだに違いはない。そのすべてが魔法の現実を作りあげていくのである。小説の中で「自分」が徐々に曖昧になっていくように、真実もまた曖昧になっていくのである。ここまで読めばなぜ人間の姿と記憶をまとってしまった異星人(この話はたびたび登場するのだが、それが真実なのかどうかは結局誰にもわからぬままだ)がなぜモチーフとして使われるのかもわかる。それは真実のはかなさを示すエピソードなのである。なお、翻訳に当たってはとりあえず第一部をどこかの雑誌に訳載してから、と行きたいのだがいかがなものだろうか。


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