すべてを始めた男、エド・ゲインについては、残念ながらこれまであまり多くは語られていなかった。もちろん名前は知られていたし、その犯罪についても断片的に書かれてはいる。だが、日本語で読める本格的な本はおそらくこれがはじめてだろう。これが皮切りになって、続々出てくれるといいんだが。
まあ、でも中身を読んでいただければ、待たされた甲斐はあったと思ってもらえるだろう。調査は行き届いているし、文章も冷静でわかりやすい。長からず短からず(最近のアメリカの犯罪本ときたら、不必要に長いだけで冗長だったらない)。アカデミックな評論を求める人にも、おぞましいディテールを望む向きにも、両方答えられる懐の深さがある。
エド・ゲイン事件については、最近では事実と伝説とがごっちゃになって語られていた。事件自体がすでに四〇年近く前のことだったし、飛び交った伝聞や憶測がすべて事実として語られていたからだ(その点は本書でも語られている通り)。著者はさすがに大学の先生だけあって、行き届いた調査で事実と伝説をよりわけ、正確に書き記している。ぼく自身、バーニス・ウォーデンの心臓の話など、本書を読んではじめて真実を知ったくらいだ。
少し先走ってしまった。著者、ハロルド・シェクターはニューヨーク市立大学クイーンズ・カレッジの教授として、米文学およびアメリカン・カルチャーを教えている。著書は多いが、邦訳は『体内の蛇−−フォークロアと大衆芸術』(鈴木晶+吉岡千恵子訳 リブロポート)のみ。発売当時はちょっと話題になったが、これは現代ポップ・カルチャーを民話[フォークロア]として論じるものだった。『エイリアン』や『E.T.』といった映画は民話の再話であり、現代人にとってのフォークロアだとされる。
現代フォークロア、都市伝説の研究家であるシェクターが、そのひとつの源流である犯罪者に目を向けることになるのは当然かもしれない。実際『体内の蛇』でもエド・ゲインと彼が生みだしたジョークやフォークロアが論じられている。おそらくはそこらあたりから殺人者に対する興味が生まれてきたのだろう。シェクターはすっかり魔道に入ってしまったらしく、最近は完全に実録犯罪研究家となった。本書出版後は"Deranged"(幼女殺しのアルバート・フィッシュ)、"Depraved"(アメリカ最初の連続殺人鬼H・H・ホームズ)と実録殺人物をものしている。古典的な事件ばかりだが、シェクターがフォークロア研究家であることを思えば当然だろう。次もDシリーズ?で実録犯罪物を準備中。
エド・ゲインの事件については、本書に書かれていないことも多々ある。たとえば、米国における残酷コミック規制のきっかけがこの事件だとされていること。あるいは、エド・ゲインの“しろうと剥製師”がヒッチコックによって『サイコ』に取りこまれたこと(ヒッチコックは死体工作の婉曲表現として剥製を使った)。だが、スペースもないことだし、ここでは深入りはしない。
ただし、ゲインの名前についてだけは書いておかなければならないだろう。本文中でも軽く触れられているが、Ed Geinの名は正確には“ギーン”と発音するようだ。しかし、これまでの文献ではガインまたはゲインとされているので、この翻訳でも“エド・ゲイン”と表記した。定着しているものをわざわざ変えるのはあまり好きではない。それに、この本で論じられる内容を思えば、実在した“エド・ギーン”よりも、フォークロアの中に生きる“エド・ゲイン”の方がふさわしいだろう。幸い、レーガン大統領とは違って、ゲイン本人からクレームがつくことはなさそうだ。
本書はHarold Schechter: Deviant;the shocking true story of Ed Gein, the original "Psycho" (1989 Pocket Books)の翻訳である。底本にはPocketのPB版を使用した。原著におけるあきらかな事実関係の誤り等は一部削除・訂正している。
文中、聖書の引用は『新共同訳』(日本聖書協会)によった。またシェイクスピアからの引用は小田島雄志訳(白水社Uブックス)に、ロバート・ブロック『サイコ』は福島正美訳(ハヤカワ文庫NV)によった。
翻訳に当たっては多くの人から教授を受けた。米国の司法制度、法執行官の役割については翻訳家の白石朗氏に、銃器の構造ならびに使用法については編集者の町山智浩氏に、未公開映画のビデオ・タイトルについては映画評論家の江戸木純氏に。全員に深い感謝を。もちろん、文中に誤りがあれば、それはすべて訳者の責任である。
本書の編集は早川書房の原広氏が担当された。疾風迅雷のスピードで完成にこぎつけた、その力量には頭が下がるばかり。
最後に、米国Nature's Way Product社に感謝を捧げなければならないだろう。Nature's Way社の風邪薬"Cold Care"のおかげで、何度か訪れた風邪危機をのりきり、タイトなスケジュールを守れたのだ。あまりよく効くもんで、しまいには風邪でなくとも薬を服用していた。中身が気になったので調べると、これがエフェドリン100%。あのマラドーナ選手も使っていたというバリバリの興奮剤ではないか。願わくば、この本がドーピング翻訳として摘発されませんように。