ハリー・スティーヴン・キーラーとは何者か?

 ハリー・スティーヴン・キーラーは1890年、シカゴに生まれた(アガサ・クリスティと同い年)。五歳のとき、父が死ぬ。20歳で母親に精神病院に放りこまれる。この経験は生涯影を落とすことになった。やがて鉄工所で働くかたわらパルプ雑誌に投稿をはじめる。評価は結構高く、キーラーに編集をまかせた雑誌すらあった。やがてキーラーは長編に転じ、1924年に最初の長編"The Voice of the Seven Sparrows(七羽の雀の鳴き声)"を発表する。以後、1967年に死ぬまでキーラーは70冊以上の長編を書いた。

 キーラーの小説はさまざまな点で異彩を放っている。あるいは「史上最低のミステリ作家」と呼ばれ、あるいは「ミステリ界のエド・ウッド」と呼ばれる。ウッドとキーラーはいくつかの点で似ているかもしれない。あまりに下手くそで、それが芸術の域に達してさえいること。本人にしかわからない異常なこだわりとフェティッシュを持っていること。そして誰の影響も受けず、たった一人で作品を作りだしたことである。エド・ウッドが独力で映画を発明したように、キーラーは一人でミステリを発明した。もちろん、それは普通の人が考えるミステリとは大きく異なるものだった。

 キーラー長編の特徴はいくつも挙げられる。まず、登場人物の名前が異常であること。ほとんど発音もできないような名前や馬鹿馬鹿しいにもほどがある名前(Joe CzesczickiとかOchiltree Jarkとか)が連発される。考えられない謎が出され(たとえば、泥棒が銀行に忍びこんで金庫の前でバイオリンを弾くだけで出ていった謎)、それに素面では考えつかないような解決がなされる(遺言にそう書いてあったから、というのがよく使われる手だ)。中国をはじめとする東洋への妙なこだわりがある(『出口』というタイトルの中国の叡知をきわめたとされる本が出てくるシリーズがある)。カーニバルと芸人、身体不自由者はかならずといっていいほど登場する。判読不能な訛りが独創的な綴りで表記される。『千夜一夜物語』に強く影響を受け、物語の中の物語の中の物語……という入れ子構造を好んだ。そのすべては考えられないような偶然で結びあわされる。

 キーラー自身は自分の作風をwebwork novelと呼んでいた。網の目を縫い合わすように、キャラクターあるいは小道具のつながりによってふたつ以上の話が結びあわされるのである。容易に理解できることだが、こうした作品はあまり世間に受け入れられなかった。30年代にはかなりの人気を持ち、映画化作品すらあったキーラーだが、40年代に入って売れ行きが落ち、それまでの出版社であったDutton社に切られる。直接的には長編"The Peacock Fan"で強烈な出版業界批判をしたためだともいう。それ以降、キーラーの小説はイギリスでしか出版されなくなってしまう。だが53年には英国の出版社もキーラーの出版を取りやめる。だが、その後もなぜかスペインでだけはキーラーは人気があり、スペイン語の翻訳だけは出版されていた。

 1960年、最愛の妻ヘイゼル(同じく作家であり、キーラーは彼女の短編を元にして長編を書いたりしている。それも何冊も)を亡くして、キーラーはひどく落ちこみ、筆を折った。だがその三年後、長年の秘書だったテルマと再婚、ふたたび小説を書きはじめた。死んだときには未刊行の長編が16冊残されていたという。

 キーラーのような作家はどこにもいないのだ。

Kiichiro Yanashita / 柳下毅一郎 / kiichiro.yanashita@nifty.com